大塚金之助とは? わかりやすく解説

おおつか‐きんのすけ〔おほつか‐〕【大塚金之助】

読み方:おおつかきんのすけ

[1892〜1977経済学者東京生まれ。「日本資本主義発達史講座」の経済思想史執筆第二次大戦後、一橋大学経済研究所所長などを務めた。著「解放思想史の人々」など。


大塚金之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/01 06:39 UTC 版)

大塚 金之助
人物情報
生誕 (1892-05-15) 1892年5月15日
日本東京府
死没 1977年5月9日(1977-05-09)(84歳没)
出身校
学問
研究分野 経済学
研究機関 一橋大学
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大塚 金之助(おおつか きんのすけ、1892年5月15日 - 1977年5月9日)は、日本経済学者一橋大学名誉教授。

近代経済学から始め、ベルリン大学留学後、マルクス経済学者となり、治安維持法で検挙された。日本の降伏後復帰し、日本学士院会員、日本ドイツ民主共和国友好協会会長等を務めた。フンボルト大学名誉哲学博士。

経歴

出生から修学期

1892年、東京府神田で生まれた[1]。旧制神戸第一中学校(現兵庫県立神戸高等学校[1]を経て、神戸高等商業学校(現・神戸大学)に進学。在学中は授業料免除特待生であり、坂西由蔵ゼミで学んだ[1]。その後東京高等商業学校(現・一橋大学)専攻部に進み、坂西の師にあたる福田徳三ゼミで指導を受けた[1]。1916年に卒業[1]

経済学研究者として(戦前)

1916年、東京高等商業学校講師嘱託に就いた[1]。1917年に同教授昇格[1]。1919年に渡米してコロンビア大学に入学し、統計的経済理論を学んだ[1]。1920年にロンドン大学に入学し、シドニー・ウェッブ教授の社会思想史講義を受講[1]。同年、ベルリン大学に入学し、初めオーストリア学派を、のち戦間期ドイツヴァイマル共和政の惨状を前にマルクス主義に傾倒し社会科学を専攻[1]。当時はちょうど東京高商の大学昇格にあわせて拡充がなされていた時期で、多くの教員が留学に出ており、同僚の本間喜一、渡邉大輔、井藤半彌金子鷹之助増地庸治郎吉田良三や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市坂本彌三郎石田文次郎田中金司五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎名古屋高等商業学校宮田喜代蔵赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。ただ、加藤由作は大塚や井藤、本間らの将棋の誘いなどに応じず、一人で研究に没頭していたという[2]

1923年、関東大震災発生の報を聞いて帰国し、1924年に東京商科大学(現・一橋大学)助教授に就いた。1927年に同教授昇格。やがてマルクス経済学者として名を馳せるようになった[1]。1927年、渋沢栄一の孫である尾高豊作尾高朝雄の支援を得て設立された東京社会科学研究所の所長に就任。同研究所には杉本栄一高島善哉が所員として参加した[1][3]

1931年からは『日本資本主義発達史講座』編集に参加[1]1932年冬、警察の追及を交すために潜伏。1933年1月10日静岡県湯河原温泉の旅館で『日本経済思想史』を執筆していたところを警視庁特高課員により治安維持法違反の容疑で逮捕された[4]。同じ時期に河上肇京都帝国大学教授とともに検挙され、豊多摩刑務所に収監される。その後懲役2年執行猶予3年の刑が確定し大学を免官となる[5][1]。さらに、公職につくことを禁じられ、終戦まで無職で過ごした[1]

太平洋戦争後

戦後、一橋大学教授に復帰[1]。1947年には高瀬荘太郎に代わり東京商科大学経済研究所所長に就任し、1949年に中山伊知郎と代わるまで組織再編にあたった[6][7][1]岩波新書戦後第1号『解放思想史の人々』を執筆[1]。 1950年、日本学士院会員に選出され、皇居にも招かれたが病気を理由に辞退した[8]。同年経済学史学会創立発起人[1]

1956年に一橋大学を定年退官し、名誉教授となった。その後も一橋大学社会学部講師として教鞭を執った[1]。1956年4月からは慶應義塾大学経済学部講師(1974年まで)[1]。1957年からは明治学院大学経済学部教授[1]。1966年フンボルト大学名誉哲学博士及びドイツ国立図書館名誉終身閲覧者[1]。1973年、日本ドイツ民主共和国友好協会会長[1]

歌人として

アララギ派歌人としても知られたが、マルクス主義傾倒後は大熊信行主宰短歌雑誌『香圓』に歌論「無産者短歌」を発表し社会主義的立場をとることを表明[1]。1928年(昭和3年)に土岐善麿、矢代東村、大熊信行五島美代子渡辺順三らと新興歌人連盟を結成したが、すぐに浅野順一伊澤信平坪野哲久、渡辺、浦野敬らと、雑誌問題で脱退し、無産者歌人連盟を結成[9]。戦時中から戦後に自由律に移行した。

研究内容・業績

門下

主な弟子には下記がいる。

他にゼミ出身者として、江田三郎(元社会民主連合代表、元参議院議員)[10][11][12]安居喜造(元東レ会長、元経団連副会長)、永井大三(元朝日新聞社常務)、土肥東一郎(元監査法人中央会計事務所代表社員)など[13]

著作

著書
  • 世界経済恐慌と国際消費組合』鉄塔書院 1931
  • 『世界資本主義発達史文献解題』(日本資本主義発達史講座 第4部) 岩波書店 1932
「日本資本主義発達史資料解説」
  • 『資本蓄積と経済恐慌』(日本資本主義発達史講座 第2部) 渡辺謙吉共著 岩波書店 1932
「資本主義発達史」
  • 『経済思想史(要領)』(日本資本主義発達史講座 第2部) 岩波書店 1933
「資本主義発達史」
  • 『解放思想史の人々:国際ファシズムのもとでの追想一九三五-四〇年』岩波新書 1949
  • 『岩波小辞典社会思想』編、岩波書店 1956
  • 歌集『人民』新評論 1979
  • 歌集『朝あけ』復刻版 大塚会 2006
著作集
  • 『大塚金之助著作集』 (全10巻) 岩波書店 1980-1981
翻訳

参考文献

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 「大塚金之助関係資料解題」一橋大学附属図書館
  2. ^ 井藤半彌純学者加藤由作教授」『一橋論叢』第39巻第2号、日本評論新社、1958年2月、121-130頁、CRID 1390853649792819968doi:10.15057/3850hdl:10086/3850ISSN 0018-2818 
  3. ^ 高橋彦博東京社会科学研究所の社会実験」『大原社会問題研究所雑誌』第479巻、法政大学大原社会問題研究所、1998年10月、1-21頁、 CRID 1390290699806027904doi:10.15002/00006718hdl:10114/5862ISSN 0912-9421 
  4. ^ 資金提供、治安維持法違反で書類送検『東京日日新聞』昭和8年2月8日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p24 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 気概の人石橋湛山
  6. ^ 「経済研究所の沿革」
  7. ^ 歴代所長 一橋大学経済研究所
  8. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、163頁。 ISBN 978-4-487-74411-4 
  9. ^ 倉田稔「大正時代の小林多喜二の評論活動と彼の思想」『商学討究』第46巻第4号、小樽商科大学、1996年3月、1-18頁、 CRID 1050001201674421760hdl:10252/1224ISSN 0474-8638 
  10. ^ 書誌索引展望 5(1) 雑誌
  11. ^ 「籠城事件」如水会
  12. ^ 杉原四郎[資料紹介] 続 経済学者の追悼文集(二)」『關西大學經済論集』第44巻第1号、關西大学經済學會、1994年4月、113-124頁、 CRID 1050001202911705600hdl:10112/13756ISSN 04497554 
  13. ^ 「大塚先生とお別れする会」のご案内



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