時雨と於菟吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:47 UTC 版)
長谷川時雨は、当初は三上を世に出そうとして様々に骨折りしたが、1928年に『女人藝術』を創刊した際には三上の原稿料によって出資するなど、廃刊までの4年間の支援をした。またこれに連載した林芙美子の原稿の原題『歌日記』を『放浪記』に改題したのも三上だった。流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いたとも言われるが、時雨は「三上さんは、あのやり方でなくっては書けないのです」と言って認めた。また時雨は「三上さんはえらい。凄い」とも言い続け、三上の時代小説の考証でも時雨は貴重な協力者となった。 1935年にはサイレン社を興し、時雨の『近代美人伝』を刊行、また出版には原稿取りに訪れる編集たちの意見も参考にしていた。 1936年に三上は愛人宅で倒れ、右半身麻痺となる。時雨は自宅近くに家を借りて愛人を看病に付き添わせたが、愛人は4ヶ月で郷里に帰す。当時三上が新聞に連載中だった「日蓮」は時雨が書き継いだが、それまでも三上が連載に穴をあけそうになると時雨が代筆していたという。 1940年には『三上於菟吉全集』全12巻が刊行。時雨は1941年に過労で倒れて急逝。戸籍上は最後まで内縁関係のままだった。三上は1943年に空襲激化のために療養を兼ねて郷里春日部に疎開し、1944年に血栓症の悪化で死去。埼玉県杉戸町大字木野川の共同墓地に葬られている。また冨士霊園「文学者の墓」には<三上於菟吉 雪之丞変化>と<長谷川時雨 さくら吹雪>の碑銘が隣り合って立てられている。
※この「時雨と於菟吉」の解説は、「三上於菟吉」の解説の一部です。
「時雨と於菟吉」を含む「三上於菟吉」の記事については、「三上於菟吉」の概要を参照ください。
- 時雨と於菟吉のページへのリンク