心中天網島
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『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃。1720年(享保5年)12月6日、大坂竹本座で初演[1]。全三段の世話物。
- ^ “歌舞伎事典”. 文化デジタルライブラリー. 日本芸術文化振興会. 2012年9月29日閲覧。
- ^ 『江戸時代の男女関係』 田中香涯著 (有宏社, 1930)
- ^ 『続歌舞伎への招待』暮しの手帖社 1951年
- 1 心中天網島とは
- 2 心中天網島の概要
- 3 登場人物
- 4 映画化
時雨の炬燵
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『時雨の炬燵』は実川延若家のお家芸とされ、鴈治郎系の『河庄』よりも和事の色が濃い。二代目実川延若が得意とし「河内屋(延若のこと)はここで、ふっと瞳を宙に遊ばせ、過ぎた日を懐かしむような表情をみせておられました。ちょっとしたことなのですが、妻子がありながら茶屋遊びにうつつをぬかしている中年男の色気がこぼれるようで、実に風情がありました。……(治兵衛のセリフ回しについて)技巧のいるところで、河内屋はうまかった。どこが良かったというと台詞の緩急です。[要出典]」と自身も得意とした十三代目仁左衛門が述べている。 現行の歌舞伎の演出では、五左衛門とおさんが去った後、小春が治兵衛宅を訪れ、丁稚三五郎が祝言の用意をする。尼となった娘の服から五左衛門の手紙が見つかり、小春の身請けの金子を用意し、おさんと娘を尼寺にやり小春と添い遂げさせようとする真意が分かる。その後、小春を強奪に来た太兵衛善六が相討ちとなる件ののち、二人は水盃をあげて心中に向かう。初代鴈治郎は「おさんが尼になったいのう」と言って大声で泣き落すやりかたをとっていた。 後半部、離縁を決意した五左衛門がおさんを無理やり実家に連れ帰る騒ぎで、炬燵で寝ていた幼子の勘太郎が「母様いのう」と起きる場面があるが、勘太郎は最初とこの場面とこの場面しか出番はなく、ずっと炬燵で寝ている設定になっているため、子役が寝てしまって起きてこないことがあり関係者をよく困らせる[要出典]。
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