ろくめい‐かん〔‐クワン〕【鹿鳴館】
鹿鳴館
原題: | |
製作国: | 日本 |
製作年: | 1986 |
配給: | 東宝 |
スタッフ | |
監督: | 市川崑 イチカワコン |
製作: | 川本源司郎 |
プロデューサー: | 藤井浩明 フジイヒロアキ |
馬場和夫 ババカズオ | |
原作: | 三島由紀夫 ミシマユキオ |
脚本: | 市川崑 イチカワコン |
日高真也 ヒダカシンヤ | |
企画: | 川本源司郎 |
撮影: | 小林節雄 コバヤシセツオ |
音楽: | 山本純ノ介 ヤマモトジュンノスケ |
谷川賢作 タニカワケンサク | |
美術: | 村木忍 ムラキシノブ |
編集: | 長田千鶴子 オサダチズコ |
衣装(デザイン): | 斉藤寛 |
ワダエミ ワダエミ | |
録音: | 大橋鉄矢 オオハシテツヤ |
スクリプター: | 橋山直己 ハシヤマナオミ |
監督補: | 吉田一夫 ヨシダカズオ |
照明: | 下村一夫 シモムラカズオ |
キャスト(役名) |
菅原文太 スガワラブンタ (影山悠敏伯爵) |
浅丘ルリ子 アサオカルリコ (影山悠敏伯爵夫人朝子) |
石坂浩二 イシザカコウジ (清原永之輔) |
中井貴一 ナカイキイチ (その息子久雄) |
尾美としのり オミトシノリ (その息子健次郎) |
岸田今日子 キシダキョウコ (大徳寺侯爵夫人季子) |
沢口靖子 サワグチヤスコ (その娘節子) |
井川比佐志 イガワヒサシ (飛田天骨) |
渡辺篤史 ワタナベアツシ (馭者赤星以蔵) |
浅利香津代 アサリカツヨ (女中頭草乃) |
平野稔 (宮村陸軍大将) |
横山道代 ヨコヤマミチヨ (宮村陸軍大将夫人則子) |
丸岡奨詞 (坂崎男爵) |
三條美紀 サンジョウミキ (坂崎男爵夫人定子) |
常田富士男 トキタフジオ (館長伊集院) |
遠藤征慈 エンドウセイジ (給仕長山本) |
佐々木勝彦 ササキカツヒコ (法制局々長高柳) |
三橋達也 ミハシタツヤ (伊藤博文) |
高林由紀子 タカバヤシユキコ (伊藤博文夫人梅子) |
井上博一 イノウエヒロカズ (大山巌) |
森田遥 (大山巌夫人捨松) |
神山繁 コウヤマシゲル (谷干城) |
浜村純 ハマムラジュン (式部官) |
解説 |
明治19年、天長節の鹿鳴館での舞踏会を中心に愛と謀略を描く。三島由紀夫原作の同名戯曲の映画化で、脚本は市川崑と「細雪(1983)」の日高真也の共同執筆。監督は「ビルマの竪琴(1985)」の市川崑、撮影は同作の小林節雄がそれぞれ担当。 |
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください |
明治19年11月3日、日比谷の練兵場では天長を祝う観兵式が行われていた。外務卿の影山伯爵は、内閣切っての実力者と自他共に認める存在だった。政府に巨額な予算で鹿鳴館を建設させたのも彼の力である。元、新橋の芸者だった妻の朝子は、輝くような美しさと人当りのよさで華族夫人たちの中心となっていた。公卿の出、大徳寺侯爵の令嬢節子も朝子を崇拝するひとりで、恋人の問題を相談した。恋人の名は清原久雄、その名を聞いた時朝子は心臓が止まる程ショックを受ける。2日後の鹿鳴館での天長の舞踏会では久雄の父、清原永之輔の指揮で自由党の残党が襲撃を計画していた。久雄を邸に呼んだ朝子は、20年以上もひとり胸にしまってあった秘密を打ち明けた。芸者時代の永之輔との愛と、久雄の母親であることを。朝子は久雄の命と恋を全うさせたいと思いひそかに永之輔をたずね、襲撃を中止するよう懇願した。襲撃計画は既に影山の情報網のキャッチするところとなっていたのである。帰宅した朝子は、影山に舞踏会に壮士の乱入はないと告げる。影山にとって襲撃事件はどうしても必要だった。それを利用して永年の敵である清原永之輔を抹殺すべきだと考えていたのだ。そして、女中頭草乃を買収し妻の秘密を知った。舞踏会の当日、影山は清原の政敵とも言うべき飛田天骨を呼び出し、壮士の乱入の中止を告げ代わりの壮士を至急揃えるよう頼んだ。また、父親に反発している久雄をそそのかし、清原を倒すようにしむけピストルを握らせた。影山の使いで清原の家へ出向いた草乃は、清原の壮士たちが命令にそむいて乱入したので止めに来てほしいと告げる。鹿鳴館ではかつてないほどの大舞踏会が始まり、女主人の朝子が内閣総理大臣伊藤博文などを出迎えていた。突然、白刃をかざして鹿鳴館に乱入して来た壮士たちの前に、凛として立ちはだかったのは朝子だった。その時、父親に裏切られたと久雄が外に飛びだして行く。追いかけた朝子は清原の銃弾に倒れた久雄の姿を見つける。約束を破ったと罵しる朝子に、清原は壮士たちは自分の塾生でないこと、久雄は自分に殺されたかったのだと告げた。朝子は影山に家を出て清原について行くと言うが、その頃、清原は拳銃で自害していた。 |
鹿鳴館
鹿鳴館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 15:56 UTC 版)
鹿鳴館(ろくめいかん)は、1883年(明治16年)に日本の外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である[2]。
- ^ a b 千代田区観光協会
- ^ a b c 百科事典マイペディア(コトバンク)
- ^ 諸橋(1993)172頁。「呦呦鹿鳴 食野之苹」(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)。天子が臣下や客を招いてごちそうする場合の詩である。
- ^ 欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人(井上馨夫妻や鍋島直大・榮子夫妻、大山捨松など)はそうした流儀を身につけていたが、ごく一部にとどまった。
- ^ 清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫、2001年、p114-115。風刺雑誌『トバエ』に掲載されたもの。
- ^ 近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社、1980年(講談社文庫、1983年)
- ^ 日本徴兵保険はその後、大和生命保険を経て、2018年現在はプルデンシャルジブラルタファイナンシャル生命保険として営業している。
- ^ 1940年3月10日、東京日日新聞に「鹿鳴館一部保存 生きた明治史の記念」という見出しで掲載された記事にいきさつが記述されている。
- ^ 東京歴史遺産~明治・文明開化の面影めぐり~「鹿鳴館~やがて哀しき夢の跡~」
- ^ また、鹿鳴館の取壊しに立会ったひとりに菊地重郎(博物館明治村の運営に参画した人物)がおり、取り壊しについて以下のように回想した。「私が塀越しでなく、中に入って最後の姿を見ることができたのは取壊し直前のガランとした昭和15年の荒廃した最後の姿だった。もちろん私は若かったし、ただの傍観者にすぎなかった。そうはいっても最後の姿を自分の目で建築家として見届けえた幸いを感謝せずにはいられない」(「饒舌・鹿鳴館について」『都市住宅』83号p.40)。
- ^ 日本プロファイル研究所 http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2013/10/post-00da.html
- ^ “700人、ステップ軽やか 「ダンスの日」前に、札幌でイベント”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年11月25日)
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