小説家へ
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「ダイアナ・ガバルドン」の記事における「小説家へ」の解説
1988年、ほんの練習のつもりで小説を書き始める。研究者としてリサーチがしやすく書きやすいと考え、歴史小説を書こうと決めたが、歴史も学んだことはなく、執筆に当てる時間も取れなかった。たまたま『ドクター・フー』シーズン6の"The War Games" の再放送でフレイザー・ハインズが演じるジェイミーを見て、主人公の1人ジェームズ・フレイザーのインスピレーションが湧き、18世紀半ばのスコットランドを舞台とした作品にしようと決めた。キルトを身にまとったスコットランド人男性に対抗させるキャラクターとして、イングランド人女性を登場させようとし、キャラクターの現代風の行動や態度を説明するために、タイムトラベルを使うことにした。World Wide Webが存在しない時期であり、昔ながらの書籍で調べを固めている。 コンピュサーブの文芸フォーラムに作品の抄録を投稿したところ、SF・ミステリ作家のジョン・E・スティス(英語)から出版権エージェントのペリー・ノウルトンに紹介を受ける。ノウルトンは、ガバルドンの未完成の出世作に『Cross Stitch』(クロスステッチ)と仮題を付け、2作を書き足して三部作にする方針を立てる。アメリカの出版社はタイトルを『アウトランダー』に改め、イギリスでは『Cross Stitch』 のまま刊行された。ガバルドンによると、イギリスの出版社は題名を気に入っていたが、アメリカの出版社はいささか裁縫や刺繍を連想させすぎる、もっと冒険的なタイトルがよいとの考えから改題に至ったという。第2作目を書き終えた後、専業作家になるためにガバルドンはアリゾナ州立大学を辞職した。 アウトランダーシリーズ本編は2020年時点で第8部まで刊行、第9部は『Go Tell the Bees I am Gone』(刊行時期2021年11月)と発表されている。また同シリーズ副主役のジョン・グレイ卿を主人公にスピンオフ作品もシリーズ化(「ジョン卿シリーズ」(英語))。またフラフィック版『The Exile (An Outlander Graphic Novel)』(2010年)を上梓した。
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小説家へ
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父の破産と病死、自身の結婚と離婚など様々な出来事を乗り越えながらも、アガサは小説家として活動していった。 1909年、自身初の長編小説『砂漠の雪』を書き、作家イーデン・フィルポッツの指導を受ける。私生活では1914年にアーチボルド・クリスティ大尉(1889年 - 1962年)と結婚し、1919年に娘ロザリンド・ヒックス(1919年 - 2004年)を出産する。第一次世界大戦中には薬剤師の助手として勤務し、そこで毒薬の知識を得る。 1920年、数々の出版社で不採用にされたのち、ようやく『スタイルズ荘の怪事件』を出版し、ミステリ作家としてデビューする。1926年に発表した『アクロイド殺し』における大胆なトリックと意外な真犯人を巡って、フェアかアンフェアかの大論争がミステリ・ファンの間で起き、一躍有名となる。また、この年には母が死去しており、アガサは謎の失踪事件を起こす。 1928年にアーチボルドと離婚するが、1930年の中東旅行で出会った、14歳年下の考古学者のマックス・マローワン(1904年5月6日 - 1978年8月19日)とその年の9月11日に再婚する。この結婚について「クリスティはなぜ彼と結婚したかと問われて『だって考古学者なら、古いものほど価値を見出してくれるから』と答えた」という逸話がある。一説によると誰かが流した心ないジョークで、アガサは作者を殺してやるといきまいていたとも言われるが(ハヤカワ・ミステリの解説より)、孫のマシュー・プリチャードはアガサ自身が冗談めかしてこのように語ったとしている(『オリエント急行殺人事件』DVD特典インタビューより)。 1943年に『カーテン』および『スリーピング・マーダー』を執筆。死後出版の契約を結ぶ。私生活では孫マシュー・プリチャードが誕生している。 1973年に『運命の裏木戸(英語版)』を発表。これが最後に執筆されたミステリ作品となった。
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小説家へ
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1955年(昭和30年)1月、劇作における代表作のひとつ『名寄岩』が上演され、自ら演出をも行った。これによりようやく文筆によって立つ自信を得て都職員を退職(昇進を断り、外回りの職に徹しており、この当時は目黒税務事務所で税金の集金を行っていた)。翌年には『牧野富太郎』、井上靖原作の『風林火山』『黒雲谷』『賊将』など、新国劇で作品を次々と上演する一方、「大衆文芸」誌に定期的に小説を寄せつづけた。初期には現代ものの作品が多かったが、1956年11月・12月号に分載した『恩田木工(真田騒動)』によって、歴史小説・時代小説を執筆活動の中心に据えるようになった。『恩田木工』は翌年、56年下期の直木賞候補となるものの落選。以降劇作と平行して着実に小説の執筆をつづけ、1959年(昭和34年)9月には処女作品集『信濃大名記』を光書房から上梓する。この間『眼』(57年上期)、『信濃大名記』(同下期)、『応仁の乱』(58年下期)、『秘図』(59年上期)で計5回直木賞候補となるも、選考委員であった海音寺潮五郎の酷評もあり受賞には至らなかった。私生活では1958年(昭和33年)暮れ、出征直前に名古屋で会って以来音信不通になっていた父と久々の再会を果たした。正太郎は母とともに同居することを勧めたが、聞き入れられることはなかった。 1960年(昭和35年)、「オール讀物」6月号に発表した『錯乱』によって直木賞(上期)を受賞した。長谷川はわがことのように喜び、正太郎も年少の頃からの愛読者であった大佛次郎から賞を手渡された。受賞後数年のうちに『清水一角』『加賀騒動』などの脚本を書くほか、『北海の男』(「オール讀物」60年10月号)、『鬼坊主の女』(「週刊大衆」同年11月7日号)、『卜伝最後の旅』(「別冊小説新潮」61年1月号)、『色』(「オール讀物」同年8月号)、『火消しの殿』(「別冊小説新潮」62年1月号)、『人斬り半次郎』(「アサヒ芸能」同年10月28日号 - 64年1月26日号)、『あばた又十郎』(「推理ストリー」63年1月号)、『さむらいの巣』(「文芸朝日」同年6月号)、『幕末新撰組』(「地上」同年1月号 - 64年3月号)、『幕末遊撃隊』(「週刊読売」同年8月4日号 - 12月29日号)など初期の代表作となる小説を次々と発表し、このうち『色』は『維新の篝火』(1961年)の題名で映画化された。一方で劇作家としては1963年(昭和38年)に子母沢寛原作『おとこ鷹』の脚色を行ったのち、しばらく演劇界・新国劇との関係を断ち、小説に専念するようになった。新国劇のありかたへの疑問や正太郎の一徹さからくる周囲との軋轢が原因であった。同年6月11日、長谷川伸が没したが、同時にこれを契機として二十六日会・新鷹会などを脱会。以後はいかなる団体にも属さず執筆をつづけた。
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