周囲との軋轢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 03:50 UTC 版)
「アンドレ・シャプロン」の記事における「周囲との軋轢」の解説
シャプロンは結局、全くの新設計で蒸気機関車を造り、量産する機会を一度も与えられることはなく、既存の機関車の改造だけに留まった。彼の人生が2回の世界大戦に影響を受けてしまったこと、鉄道が近代化して蒸気機関車が置き換えられていく時代に差し掛かってしまったことの影響もあったが、周辺環境の問題も大きなところがあった。 シャプロンの業績は顕著なものであったが、それがために周囲との軋轢は絶えることがなかった。彼が既存の機関車を改造して大きな出力改善を得たということは、彼の前任者たちが無能で、機関車が本来持っている力を十分に引き出せていなかったということを明らかにしてしまったからである。またフランス国鉄が5大鉄道の合同で成立した組織であることから、母体となる各鉄道会社の派閥があり、特にPLM出身者は自分たちの技術を残そうとして、大戦後の急行形量産機が240 P型や242 A 1型ではなく、241 P型となった大きな原因となった。 さらに大戦後は政府や国鉄上層部は急速に無煙化を進めていく方針を取った。しかし、そうした上層部に言わせれば古ぼけて時代遅れであるはずの蒸気機関車が、シャプロンの改造により圧倒的な性能を発揮し、最新鋭であるはずの電気機関車を上回る実績を見せてしまったことは、かえって目障りなものとして扱われた。 1953年にシャプロンはフランス国鉄を定年退職した。その後は、シャプロンの機関車は現場の機関士からの評判はよかったにも関わらず急速に廃車され、解体されていくことになった。最強の242 A 1型も1961年に解体された。240 700型や240 P型も多数が存在したにもかかわらず1両の保存車両もなかった。公式には、試作機や改造機は保存に値しないという理由とされたが、実際にはフランス国鉄の幹部から目障りに扱われたのではないかとされている。結局、シャプロンが関わった機関車で残されたのは、北部鉄道向けのパシフィック機1両のみで、ミュルーズのフランス鉄道博物館で展示されている。
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