作家としてデビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/04 18:17 UTC 版)
三重県鈴鹿郡加太村(現亀山市)に米穀商の三男に生まれる。父は米穀商の傍ら株の仲買人を手がけていたが、日露戦争後の相場の乱高下で損害を被り名古屋へ転居。小学校も中退し国民中学会の中学講義録で独学しながら、一方で隈本有尚によって紹介され始めた占星術にも興味を示し、東京帝国大学の講義を受けた。 1912年(大正元年)に上京。暫くは職を転々とし蓄財に励んだ後、隈本の主宰する占星術研究会に入門。研究会に参加していた知識人や政治家・実業家などから知識を仕入れながら、懸賞小説などに応募し続けるも入選せず、一時は東京を出て大津や名古屋で新聞記者として勤めるが、金銭トラブルで辞めざるを得ず再び東京へ舞い戻って隈本の紹介で田川大吉郎の知遇を得る。1917年(大正6年)に『苦学十年』で作家としてデビューするが、あまり注目されなかった。だが第二作目の『独逸伯林城下の誓い』は、第一次世界大戦下の反ドイツ感情を煽情的に訴えたことから大好評を拍し、当時陸軍参謀次長だった田中義一から評価された。更に『熱血宰相ケレンスキー』、『苦学実験物語』、『生存競争とその血路』と続けて著作を出すが、作家としての評判は芳しくなく印税を相場に注ぎ込むも失敗。名古屋へ戻った。
※この「作家としてデビュー」の解説は、「伊東ハンニ」の解説の一部です。
「作家としてデビュー」を含む「伊東ハンニ」の記事については、「伊東ハンニ」の概要を参照ください。
- 作家としてデビューのページへのリンク