作家としての特徴
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「難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを面白く」を創作のモットーとしており、文体は軽妙であり言語感覚に鋭い。 言葉に関する知識が、「国語学者も顔負け」と称されるほど深く、『週刊朝日』において大野晋、丸谷才一、大岡信といった当代随一の言葉の使い手とともに『日本語相談』を連載する。また、『私家版日本語文法』や『自家製文章読本』など、日本語に関するエッセイ等も多い。 自他共に認めるたいへんな遅筆で有名。自ら「遅筆堂」という戯号を用いるほどで、特に戯曲『パズル』完成に間に合わず雲隠れした「パズル事件」は有名。休演や初日延期の事態になった場合の損失には私財を投じて補塡したという。1983年に自作の戯曲を専門に上演する劇団「こまつ座」を創立したが、その後も唯一の座付き作家である井上の遅筆により、公演中止や幕開け初日の延期による公演期間短縮などの騒動も何度か起こしている。 あまりの遅筆のため、ふつうは上演前に台本の原稿が仕上がると業者に回して謄写版を切ってもらうのだが井上の場合それが間に合わず、自らガリ版を切ることが多かった。娘の麻矢によると「書き始めると早いのだが、それまでに時間がかかった」とのこと。親交のある永六輔によると「『遅筆がひどいのでパソコンで字を書こうと考えている』と話していたが、どちらにしても同じだからやめなさいと説得し、結果やめていた」という。ただし、自ら台本のガリ版を切っていただけあって、井上の原稿は丁寧で大変読みやすいものだった。 戯曲の完成度の高さは現代日本においては第一級のものであり、数々の役職を含め、日本を代表する劇作家として確固たる地位を確立した。死去に際しては「国民作家の名にふさわしい」(別役実、産経新聞)「井上作品のあの深みと重み。同じ方向に行っても勝てるわけはないですから」(三谷幸喜、朝日新聞)「父のような存在でした。いつか“ライバルです”って、言ってみたかった」(野田秀樹、同)と、当代を代表する劇作家たちからの最大級の賛辞が追悼コメントとして並んだ。また井上作品『ムサシ』の英米公演を控えた演出家の蜷川幸雄は訃報を受け「井上さんの舞台は世界の最前線にいるんだということを伝えたい」(報知新聞)と語っている。彼の書評眼の鋭さに対する賞賛の声もまた存在している。 膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名で、蔵書は後述の「遅筆堂文庫」として寄贈された。同様に膨大な資料を元に作品を描くことで有名な司馬遼太郎と同じ資料を探していて、一足違いで先を越されたエピソードもある。 井上の政治的姿勢に抗議電話をかけてきた右翼に対し「あなたは歴代天皇の名前が言えるのか、自分は言える」とやりこめた逸話もある。 井上には戯曲『父と暮せば』や『紙屋町さくらホテル』、朗読劇『少年口伝隊一九四五』と広島への原爆投下を題材にした作品も多いが、これについて2009年7月に広島市で行われた講演会で「同年代の子どもが広島、長崎で地獄を見たとき、私は夏祭りの練習をしていた。ものすごい負い目があり、いつか広島を書きたいと願っていた」「今でも広島、長崎を聖地と考えている」と話した。 後年、作家となった井上ひさしは、彼独特のユーモアを交えてこんな言葉を残しています。『浅草フランス座は、ストリップ界の東京大学だった。』
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