作家となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/11 05:00 UTC 版)
1897年(明治30年)田中石蔵、クニの長女として、鳥取県気高郡に生まれる。 1910年鳥取技芸女学校へ入学するも、1911年中途退学。その後、大学通信講座で英語、国文を学び始め、「女子文壇」や「女学世界」など文芸誌への投稿を始める。のちの夫、安治博道が古代子と知り合うきっかけとなったのは、1914年に古代子が「因伯時報」に「不具と云われた女より」を投稿したことであった。 1915年、文芸誌「我等」の同人となり、「闇の夜に」「心のまゝ」など、次々と作品を発表。9月には、山陰日々新聞社に入社し、県下初の女性記者となる。同年11月に安治博道と結婚し、やがて退社。1916年父石蔵が死去。同年古代子が「我等」に発表した「接吻」、安治博道が発表した「性の闘争」の二作がともに社会風教上不都合ということで、発禁処分となった。 1917年、長女千鳥が生まれるが、夫との人生観や文学観の違いから古代子は千鳥を連れて実家に戻り、離婚の請求をする。その間、古代子は実家の浜村温泉で滞在していたが、神戸から来た青年画家今井朝治と知り合い親しくなる。1918年8月、夫の安治博道から姦通罪で告訴され、10月、古代子と今井に懲役6か月(執行猶予5年)の判決が言い渡された。 逆に、古代子は安治を問屋横領の罪で告訴し、のちに双方の和解が成立し、離婚も成立した。ようやく古代子は執筆に専心できるようになった。
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