作家になるまで
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「J・K・ローリング」の記事における「作家になるまで」の解説
イギリス南西部ブリストルの北東約15キロ、グロスタシャー州にあるイェイト(英語版)に住むロールスロイスの航空機のエンジニアであるピーター・ジェームズ・ローリングとアン・ローリング夫妻の長女として生まれた。生まれた病院は、隣町のチッピング・ソドベリー(英語版)にある。2年後に妹が生まれ、本人が4歳の時に家族はグロスタシャーのウィンターボーン(英語版)に移り、さらに9歳の時にタッツヒル(英語版)へと引っ越し、「チャーチ・コテージ」と呼ばれる19世紀半ばに建てられたゴシック風の建物で、美しい庭に囲まれて成長した。近くには、自然豊かなディーンの森があった。この様々な民間伝承をもつ神秘的な森は彼女の想像力をかき立てた。 子供時代から物語を書くことが好きで、初めて書いたのは『Rabbit』という名前のウサギの話で、6歳の時である。ワイディーン・コンプリヘンシヴ・スクール(総合制中等学校)時代にはすでに想像力に富んだ作品で国語の教師たちに強い印象を与えていた。サバイバルを主題にしたエッセイ『私の無人島生活 (My Desert Island)』はA+をとった。しかしこの頃はガリ勉といじめられたり因縁をつけられ喧嘩をふっかけられたりと不愉快な思いも経験していた。また15歳のころ母アンが多発性硬化症と診断が下される。陽気で活力にあふれた母が徐々に病魔に侵されていくのを見ているのは胸が引き裂かれるほど辛いことだったとローリングは語っている。ローリングは最終学年でヘッドガールに選ばれるなど明るく社交的な人気者になっていた。 本人は文学方面に進みたかったが、両親の希望でエクセター大学でフランス語と古典を学んだ。1年間の留学期間が必須科目だったのでパリに留学し、パートタイムで英語を教えた。在学中も多くの小説を書いたが完成までは進まず、むしろ読む方に時間を費やし、ジェーン・オースティンなどの作品を読んだ。最終学年を迎えた1987年、自ら志願して年に1回マーティン・ソレルの指導で上演されるフランス語の劇に協力した。フランスの劇作家オバルディアの『農場の宇宙飛行士』という哲学的なファンタジー喜劇で衣装係に任命された。 1987年夏卒業。この頃母アンの病状はかなり悪化しており車いすや歩行器が必要となっていた。卒業後はロンドン南西部のクラパムにあるフラットに引っ越した。ロンドンのアムネスティ・インターナショナルで秘書として働いたが、仕事にはあまり興味を見出せなかった。この時は大人向けの小説を書き始めていた。一度だけ出版社で働いたこともあり、原稿の断り状を送る作業をしていた。この頃、タイプをかなりのスピードで打つことが出来るようになっていた。ローリングは25歳を迎えるまでに2つの小説を書いたが日の目を見なかった。その頃からカフェやバーでメモや短い文書を書きなぐる習慣ができた。
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作家になるまで
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「バーリー・ドハーティ」の記事における「作家になるまで」の解説
1943年、リバプールにて父ウォルター・ホリングスワースのもとに3人の子どもの末っ子として生まれる 。4歳のとき、初期の作品の舞台にもなるホイレイク(英語版)に引っ越す。 父は鉄道員として務めるかたわら、地元紙に詩を投稿するなど執筆活動に熱心で、その父から「物語を受け継いだ」とのちに述べている。 それに倣い5歳から、初めのうちは父にタイピングしてもらいながら、地元紙の子供向けページに14歳で資格がなくなるまで詩や物語を投稿した 。2004年の回想で「夢を抱いたのは私ですが、その夢を育てたのは父です。父は毎晩寝る前にベッドで話を聞かせてくれ、またよく二人で一緒にお話を作りました。キャッチボールをするみたいにアイデアを出し合い、あるところで父が『もういいや』とボールを置き『あとは自分で仕上げられるだろ』と言うのでした。」と語っている。 アプトンホール修道院付属学校で学んだ後、ダラム大学で英語学を専攻し1965年に卒業。その後、リバプール大学で社会科学の準修士を取得。1978年に出産し母親となったのち、シェフィールド大学で教育学の準修士を取得。このときの創作作文コースの課題として修道院付属学校を描いた小説が地元のラジオで放送され、ドハーティの最初の大人向け小説 Requiem の下敷きとなった。 ソーシャルワーカー、教師として働いたのち、BBCラジオ・シェフィールドの教育番組の執筆・制作に二年間携わり、そのうちのシリーズの一つが『ホワイト・ピーク・ファーム』となる。 子供時代の新聞への投稿から20年以上を経て、自身の子どもたちが小学校に入学すると、本格的に執筆を再開。1982年に How Green You Are! を初出版し、翌年から本業の作家となった。
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