学生時代から作家になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:54 UTC 版)
「井上ひさし」の記事における「学生時代から作家になるまで」の解説
1950年、宮城県仙台第一高等学校へ進み孤児院から通学。在校中の思い出を半自伝的小説『青葉繁れる』に記している。在校中は新聞部に所属し、同級生に憲法学者の樋口陽一、1学年上級生には俳優の菅原文太がいた。在学中は投稿や読書、映画、野球に熱中し、成績は低迷。東北大学と東京外国語大学の受験に失敗して早稲田大学の補欠合格と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}慶應義塾大学図書館学科の合格を果たすも学費を払うことができず[要検証 – ノート]、孤児院の神父の推薦で1953年、上智大学文学部ドイツ文学科に入学し、代々木上原のラ・サール修道院から通う。しかしドイツ語に興味が持てなかった上、生活費も底をついたため2年間休学して岩手県の国立釜石療養所の事務職員となる。看護婦への憧れから医師を志し、東北大学医学部と岩手医科大学を受験して失敗。1956年、上智大学外国語学部フランス語科に復学。釜石で働いて貯めた15万円は、赤線に通い詰めて2か月で使い果たした。 在学中から、浅草のストリップ劇場フランス座を中心に台本を書き始める。当時のストリップは1回2時間程度のショーに先駆け1時間程度の小喜劇を出し物としており、殊にフランス座は渥美清を筆頭として谷幹一、関敬六、長門勇と言った後に日本を代表する喜劇役者の活躍の場であった。これらの大学時代の経験は、『モッキンポット師の後始末』に(かなりフィクションが交えられているが)小説化されている。
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