学生時代から新興キネマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:59 UTC 版)
府立二中から、大学進学を志望していた時、父の事業が不振に陥ったため、親の経済援助を当てにすることは出来ないと考えた。そのため、叔父のつてで日清生命のエレベーターボーイをして15円の給料を貰い、下宿代、交通費、学費などを自分で賄ったと言う。昼食は抜きで、すり切れた洋服を着ていたという。これが一番苦しかった時代だったと書いている。然し、その苦しい中でも学業に打ち込み、早稲田第一高等学院に入学。 在学中、新興キネマで俳優募集をしていたので、友人二人と共に応募して若原だけが合格。俳優学校で一年間の研修期間を経て、1936年(昭和11年)、新興キネマに正式入社する。その時の講師に千田是也、菅井一郎がいた。仕事は未だエキストラの役であったが、撮影所の仕事の方が面白くなり、学校は自然退学した。 入社して半年目に召集されたが、1940年(昭和15年)の春、鎖骨を損傷して除隊となる。再びスタジオの門をくぐり、既知の脚本家と監督に出会い、二人の熱心な勧めで俳優を続けることに。その時、芸名を「若原雅夫」とした。由来は、早稲田大学野球部の人気投手・若原正蔵と、新興で世話になった今村正夫の名のアレンジによる。
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