学生時代および米英戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 14:24 UTC 版)
「ジョサイア・タットノール」の記事における「学生時代および米英戦争」の解説
タットノールは、ジョージアの州知事および上院議員であったジョサイア・タットノール・シニアの息子として、ジョージア州サバンナ近くの父のプランテーションで生まれた。英国に留学後、1812年1月1日に士官候補生となり、8月1日にフリゲート、コンステレーション (USS Constellation) に配属されるまでワシントンの海軍学校に学んだ。 コンステレーションが海に出ようとしたとき、強力な英国海軍の艦隊がチェサピーク湾で作戦中であり、艦はノーフォークに戻らざるを得なかった。コンステレーションは米英戦争中はハンプトン・ローズに閉じ込められたままであったが、タットノールと彼の同僚たちは戦いに参加すべく活動した。タットノールは海兵隊のおよそ100人の兵の一人として、クレイニー島(英語版)の沿岸砲台に配属された。1813年6月22日、ノーフォーク攻撃準備のため英軍は嵐に乗じて島を占領しようと試みた。タットノールの砲台と米国艦船は、英軍の攻撃を挫折させ、英国はそれ以降ノーフォークの占領を断念した。 1814年4月、タットノールはコンステレーションを降り、8月24日までワシントン海軍工廠の労働者からなる部隊の指揮をとった。彼の部隊はブラーデンスバーグの戦いに参加したが、ワシントンに進撃する英軍の前進を食い止めることはできなかった。10月14日、サバンナで、鹵獲した英国海軍のスループ、エパービア (Epervier) への乗艦を命じられた。エパービアはスティーヴン・ディケーター代将の指揮下に入るため、1815年5月に地中海に向けて出港、第二次バーバリ戦争中のアルジェリアでベルベル海賊と対峙した。6月17日、ガタ岬沖の海戦で敵のフリゲートを拿捕し、2日後にはパロ岬沖の海戦でブリッグを拿捕した。7月、エパービアは派遣部隊と共に米国に戻るように命令されたが、タットノールはコンステレーションに移乗し、地中海に残った。1817年1月、オンタリオ (USS Ontario) に移乗し、帰国した。
※この「学生時代および米英戦争」の解説は、「ジョサイア・タットノール」の解説の一部です。
「学生時代および米英戦争」を含む「ジョサイア・タットノール」の記事については、「ジョサイア・タットノール」の概要を参照ください。
- 学生時代および米英戦争のページへのリンク