作家になる
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「ロバート・A・ハインライン」の記事における「作家になる」の解説
選挙後はそれほど貧困だったわけではないが(海軍から小額ながら障害年金を受け取っていた)、ハインラインは借金を清算するために小説を書き始め、1939年にアスタウンディング誌にて「生命線」でデビューした。その後すぐさま社会派SFの旗手として認識されるようになった。デンバーで開催された1941年のワールドコンではゲストとして招待されている。第二次世界大戦中、1943年から技術士官(航空工学)として海軍に復帰。アイザック・アシモフやL・スプレイグ・ディ・キャンプと共にペンシルベニア州のフィラデルフィア海軍造船所で働いた。 1945年に戦争が終わると、ハインラインは自分の経歴を再評価し始めた。広島・長崎に対する原爆投下や冷戦の勃発に刺激され、彼は政治的なノンフィクションを書くことを思い立った。同時に原稿料の高い市場に参入したいという考えもあった。1947年2月の「地球の緑の丘」を初めとして、サタデー・イブニング・ポスト誌に4編の重要な短編小説を発表している。これにより「パルプ・ゲットー」から抜け出した最初のSF作家となった。原作を提供した1950年の映画『月世界征服』では、脚本にも参加し、特殊効果についても助言している(この映画はアカデミー賞特殊効果賞を受賞している)。また、チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社から年に1冊のペースでジュブナイルSF小説のシリーズを初め、1950年代末まで続けた。 1947年、2人目の妻と離婚。翌年、バージニア・ガーステンフェルド(ジニー)と再婚し、40年後に死別するまで添い遂げた。 その後間もなくコロラド州に引っ越すが、1965年に標高のせいでジニーが健康を害してしまう。そこでカリフォルニア州サンタクルーズに引越し、サンタクルーズに程近いボニー・ドーンに新たな家を建てた。独特の丸い形状の家はハインライン自身が妻と共同で設計したものである(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯37度3分31.72秒 西経122度9分30.46秒 / 北緯37.0588111度 西経122.1584611度 / 37.0588111; -122.1584611 (ハインラインの家))。 ハインラインの作品に登場する聡明で勇敢な女性のモデルは間違いなく妻のジニーである。1953年から1954年にかけてハインライン夫妻は船で世界一周の旅をし、その旅行記を Tramp Royale として出版した。また、この旅が『天翔る少女』や『ガニメデの少年』といった長い宇宙旅行を扱ったSF小説に役立っている。ジニーはハインラインの原稿を最初に読む役目を担った。またエンジニアとしてはハインラインよりも優秀だったという。 アシモフによると、ハインラインはジニーと再婚したころから急激に右翼に転向したという。夫妻は1958年に小規模な「パトリック・ヘンリー同盟」を結成し、1964年にはバリー・ゴールドウォーターの大統領選の選挙活動に参加している。また、Tramp Royale にはマッカーシー聴聞への2つの長い弁明文が含まれている。このころハインラインは『異星の客』(1961) を書いているが、こちらは非常にリベラルな内容で、1960年代後半には「ヒッピー運動の非公式なバイブル」とまで言われるようになった[要出典]。 ハインラインのSF小説のうち、ジュブナイルとされる作品群も重要な位置を占めている。ジュブナイルでは話題性のある題材を扱ったが、1959年の『宇宙の戦士』はテーマが子供向けとしては物議をかもすものだったため、出版社(スクリブナーズ)に出版を断られ、別の出版社から出版した。これ以降ハインラインはジュブナイルの制約を越え、一連のSF小説の境界を描き直すような挑戦的作品(1961年の『異星の客』や1966年の『月は無慈悲な夜の女王』など)を書きはじめた。
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作家になる
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「ライマン・フランク・ボーム」の記事における「作家になる」の解説
新聞が1891年に潰れると、彼と妻と4人の息子はシカゴに移った。ボームは「イヴニング・ポスト」の記者の仕事を見つけた。彼は旅回りのセールスマンとしても働かなくてはならなかった。 1897年、ボームは"Mother Goose in Prose"(散文のマザー・グース)を刊行した。これはマザー・グースの韻文を散文の小説に直した短編集で、挿絵はマックスフィールド・パリッシュであった。本作はそこそこの成功を修め、ボームはセールスマンをやめることが可能となった。1899年にはイラストレーターW・W・デンスロウ(William Wallace Denslow)と組んで、ナンセンス詩集"Father Goose, His Book"(ファーザー・グース、彼の本)を発表した。この本は成功した。その年の児童書としてはベストセラーになったのである。
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