小説家として活動
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かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。1936年(昭和11年)6月、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を、川端康成の紹介で文壇(『文学界』)に発表し作家的出発を果たす。川端の知遇を得るきっかけは、青山に住んでいた頃、同居した恒松安夫の中学時代の同窓・三明永無(川端の一高からの友人)の紹介であった。1923年(大正12年)8月に銀座のモナミ(レストラン)で、夫・一平と共に初めて川端と会合して以降、3人は親交を持つようになり、かの子は1933年(昭和8年)頃から川端から小説の指導を受けていた。 パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた『母子叙情』、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された『老妓抄』、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた『生々流転』などは代表作となったが、1939年(昭和14年)、油壷の宿にある青年と滞在中に脳溢血で倒れた。その頃には恋人ができた恒松安夫は去っていたが、岡本一平と同居していた新田亀三がかの子を献身的に看病するのである。2月に入って病勢が急変、2月18日に東京帝国大学附属病院小石川分院で死去。49歳没。戒名は雪華妙芳大姉。
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