フランス語と同人『言葉』
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「坂口安吾」の記事における「フランス語と同人『言葉』」の解説
大学でサンスクリット語などの辞書を読むために、さらにラテン語、フランス語を学び、1928年(昭和3年)に神田三崎町のアテネ・フランセ初等科に通い始める。そこで、フランス語を成績優秀で「賞」をもらうほど習熟し、同校に通う長島萃、江口清とも知り合う。当時の安吾は詰襟服にソフト帽を押しつぶしたようにかぶり、まだ酒も飲まず、講義に欠かさず出席して神経衰弱を治すために勉強に打ち込んでいたと江口清は述懐している。安吾は彼らと読書会を開き、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェ、デュアメル などに惹かれた。当時隆盛であった左翼文学やプロレタリア文学には全く魅力を感じず、佐藤春夫、宇野浩二、葛西善蔵、有島武郎を愛読し、小説家への夢を本格的に固める。この頃に第2回『改造』懸賞創作に小説を応募するが落選する。翌1929年(昭和4年)、アテネ・フランセ中等科へ進んだ安吾は、校友会に参加し、菱山修三、葛巻義敏らとも知り合った。11月に再び、第3回『改造』懸賞創作に応募し落選したとされる。 1930年(昭和5年)3月に東洋大学を卒業した安吾は、既成の文学者のようになれない自分に煩悶し、書くべきものの必然性を求めて寄席やレビュー、歌舞伎を観たり、音楽(エリック・サティなど)を聴いたり、有名になりたいという野心と裏腹にカフェーの支配人になろうともするが、アテネ・フランセ高等科に進み、本格的に20世紀フランス文学を学ぶ。5月には荏原郡矢口町字安方127番地(のちに蒲田区安方町。現・大田区東矢口)に新築した家に、兄・献吉夫婦と、前年1929年(昭和4年)に妹・千鶴と上京してきた母・アサと移住した。母は、自分の実家から資金援助し安吾をフランスへ留学させてやろうと真剣に考えていたが、安吾自身は自信がゆらぎがちで、〈途中で自殺しそうな気配の方を強く感じて〉しまい、留学に踏み切れなかったという。11月に、アテネ・フランセの友人葛巻義敏、長島萃、江口清、山田吉彦(きだみのる)らと同人誌『言葉』を創刊。創刊号に翻訳「プルウストに就てのクロッキ」(マリイ・シェイケビッチ)を掲載した。この頃から同人仲間と神楽坂、神田、銀座、新橋に飲みに行くようになる。同月14日には、兄妹の中で一番好きだった異母姉・ヌイが黒色肉腫のため死去(40歳で没)。
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