自己意識
自己意識(じこいしき)、あるいは自意識とは、自己が存在することに気づく(意識上に上る)能力[1]、外界や他人と区別された、自我としての意識[2]。
概要
人の自我がおのれを感じ、考え、意志を持ち、行動する多様な働きを統一する自己同一的な主体としての意識。人では、幼少期には存在しないとされる[2]。自己意識を持たない動物は、鏡に映った自身の姿を、自分と認識することができない。チンパンジー等の高等霊長類は自己意識を持つが、犬や猫などは概ねこれを持たないとされる。言語を持たない動物や赤ん坊であっても、以下のような実験を行なうことで、自己意識の有無を調べることができる。対象の額に鮮やかなドットを塗り、次に、鏡の前に対象を置く。対象が自分の額からドットをとろうと手を伸ばした場合、対象は自己認識によって自分の存在をはっきり理解しているといえる。これをマークテストという。
人の場合、自意識は内面に向けられる醒めた意識であり、時として非活動性の要因となり、病的に強くなると孤独感となりやすい[2]。
ソクラテス以来、自覚の達成は哲学の典型的な例であり、自己に価値を見出し意識する自意識が自覚である。トマス・アクィナスは自意識の反省的性格を指摘した。自意識の独特の明証性に真理体系の土台を置いたのはデカルトである[2]。
出典
- ^ 脳科学辞典 自己意識
- ^ a b c d “コトバンク - 自意識”. 2019年12月11日閲覧。
関連項目
外部リンク
自意識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:04 UTC 版)
「キリスト教とユダヤ教」の記事における「自意識」の解説
ユダヤ教の目的は、神とユダヤの人々の間で結ばれたシナイ契約のみを実践することにある。トーラーは、ヘブライ語聖書(旧約聖書はキリスト教徒の使う名称)であれ口伝律法であれ、この契約について物語り、契約の条件を供給する。口伝は、ユダヤ人がこれらの契約を守るための大切な導きであり、ミシュナーギッティン60bに「聖なる神よ、祝福あれ、主とイスラエルの契約を結ばれぬように、口伝律法の美徳によるものでない限り」とあるように、彼らが聖い生活を贈る方法を学び、神聖と平和と愛とをこの世にもたらす手助けとなる。そのため、この世はケドゥシャー(kedushah、アミーダー第3)の高みに至るのである。 元はトーラーを学び実践することでそれが可能となるとされたが、第二神殿の破壊以降、ミシュナーソター49aに「神殿の破壊以来、人生は以前と比べ呪われたものとなっている。世界を救えるのはケドゥシャー・・・とトーラー学びの後に交わされる議論だけである。」とあるように、祈りを通して行われるという。アミーダーの採用以降、イザヤ書6:3に「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかなヤハウェ、万軍の主、主の栄光は全世界に満ちる。」とあるように、本来はユダヤ人にとって日々の義務であり神を聖別するものであったトーラー研究の代わりに、宣言を通して神の承認を得る。学びと祈りを日に3回繰り返すことは、個々のユダヤ人と神とで交わされた最初の契約を確認することであり、神との関係を途切れることなく維持することにつながる。これによりコミュニティとしてのユダヤの人々は、イザヤ書42:6の予言「主たる我は、義をもって汝を召し、汝の手をとり、汝を見守る。汝を民の契約とし、諸々の国々の光とする。」を成し遂げようと努めることが許される。それは、歴史の推移や、平和と清浄の時代をもたらす神の意図をも超える。そこでは誠実な生き方と良き行いは、それ自体が目的であり、手段ではない。 キリスト教の目的は、使徒言行録でいう「道」に示されるように、救済への唯一有効な経路を人々に提供することである。異邦人(非ユダヤ人)キリスト教徒という条件でのみ、「道」はクリスチャンと称される。キリスト教神学者のアリスター・マクグラスによると、ユダヤ人キリスト教徒は、当時のユダヤ教(第二神殿時代)のあらゆる点を肯定した上で、「イエスは救世主である」という信条を付加している。イザヤ書49:6はイザヤ書42:6に「非常に似通っており」、使徒言行録13:47ではパウロにより引用され、ユスティノスにより再解釈された。パウロを代表とするキリスト教徒の著述家によれば、人々は現状のままでは罪に満ちていると、聖書は教えている。また新約聖書は、イエスは人の子であると同時に神の子であり、位格的結合によって、子なる神、神の化身となる。イエスが磔刑に処せられたのは、人間の罪をあがなうための犠牲であり、イエスを救世主として、また主として受け入れることで神罰から逃れ、永遠のいのちを得ることができる。イエスは新しい契約の仲介者である。モーセのシナイ契約とは対照的に、有名な山上の垂訓についてキリスト教神学者の幾人かは、新しい契約の倫理を宣言したものであると考えている。予型論的解釈の項を参照。
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「自意識」の例文・使い方・用例・文例
- 映画の中で俳優はまったく自意識が強くないように見えた。
- そんなことを気にかけない方がいい. 君は自意識過剰だよ.
- 自意識が強くない
- 彼女は自意識がない友情の中で彼と育った
- 自信がなく自意識の強い様子で
- 不快なほどに自意識のある態度で
- 自意識の強いティーンエイジャー
- 不安で自意識が強く感じる感性、あるいは原因
- 自意識の強い意識
- 社会価値の保護者としての役割についての自意識―DMポッター
- 自意識を持たないこと
- 自意識
- 愚かな自意識過剰な微笑
- ヘミングウェイ風のほとんど自意識過剰な単調さ
- 微笑が愚かで自意識が強くて時々内気であるほほえむ人
自意識と同じ種類の言葉
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