1970年11月25日とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 1970年11月25日の意味・解説 

三島事件

(1970年11月25日 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 07:31 UTC 版)

三島事件(みしまじけん)とは、1970年昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる[1][2]


注釈

  1. ^ この建物は1874年(明治7年)から1879年(明治12年)まで陸軍士官学校、戦争時は大本営陸軍部、陸軍省参謀本部などが置かれ、 大日本帝国陸軍メッカでもあった[9]太平洋戦争の敗戦時には、晴気誠少佐吉本貞一大将などが割腹自決をし、極東国際軍事裁判の法廷にも使用された場所でもある[9]
  2. ^ 玄関で出迎えた沢本三佐が、日本刀の所持について質問したが、三島は例会に使う「指揮刀」だと言った[6][10]
  3. ^ 中村2佐はその後、陸幕広報班長、第32連隊長、総監部幕僚副長、久留米の幹部候補生学校校長を歴任し、1981年(昭和56年)7月、陸将で定年退官した[14]
  4. ^ ちなみに、山本舜勝が最後に三島宅を訪問した際、形見かのように、三島から恩賜の煙草と楯の会の隊歌のレコードを貰ったという[20]
  5. ^ このバルコニーは、かつて太田道灌江戸城防衛のために展望台を置いた所でもある[9]
  6. ^ この「七生報國」という語は、楠木正季が兄・楠木正成と共に自害した時に発した言葉として『太平記』で語られている(正成も弟のその言葉に同意)。
  7. ^ 「檄文」では、自分を否定する憲法にぺこぺこする自衛官たちを〈自ら冒瀆する者〉と表現されている[23]
  8. ^ K陸曹はその当時の心境を以下のように述懐している。
    無性にせつなくなってきた。現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに。まるで学生のデモの行進が機動隊と対決しているような状況であった。少なくとも指揮命令をふんでここに集合してきた隊員達である。(中略)部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合をかけた以上正規の手順をふむべきだ。こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。 —  K陸曹の回想[9]
  9. ^ 三島は楯の会の会員に、「人間が自分の話す言葉の真意を誤りなく伝え、相手に正確に理解してもらえる範囲は、せいぜい10人が限界だ」と、軍隊の最小単位の班が何故10人かという根拠の説明をし、話し手の表情・呼吸・息吹が聞き手に直接伝わる範囲の中で普通の肉声で話さない限り、話の真意はなかなか伝わらず、大勢を相手にして文明の利器のマイクを使って声を張り上げて演説すると、そこには必ず虚飾と誇張が入り、本質的に人の心を動かすことはできないという意味の話をしていた[24]
  10. ^ 徳岡孝夫は、演説を聞き取れる範囲で書き残したメモを、三島から託された手紙・写真と共に、と銀行の貸金庫に保管しているという[29]
  11. ^ 文化放送で、この事件を担当した若手記者・三木明博は、その後同社の社長に就任している。
  12. ^ この時、介錯を三度失敗したことで、刀先がS字型に曲がってしまったとも言われる[35]
  13. ^ 1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらず、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。」
    また慶応義塾大学病院法医学解剖室教授・斎藤銀次郎(当時)による1970年11月26日の解剖所見の三島の切腹傷のように(「#検視・物証・逮捕容疑」を参照)、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。さらに瞬時に襲ってくる全身の痙攣硬直により両脚が伸びきり、そのために上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう。だから切腹する者の傍らに押さえ役を配しておかなければ到底介錯することはできないのである。
    なお森田の割腹に関して、三島および森田の空手の師匠であった中山正敏が次のように述べている。「目の前で 三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。」(中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」1971年2月1日付)
    以上の事実から判断するに、森田必勝による三島由紀夫の介錯が失敗だったことは疑うまでもないもののそこには無理からぬ理由があったものと斟酌すべきだろう。
  14. ^ 三島自決の3年後、市ヶ谷のとある企業の参与となった山本舜勝を持丸博が訪ね、「山本さん、いい悪いは別にして、三島先生があのような事件を起こしたのは、あなたに刺激されたせいかもしれませんよ」と言うと、山本は下を向いたまま、「寝覚めが悪い。いまは三島さんの霊を慰めながら、俳句三昧の生活をしている」と答えたという[61]
  15. ^ 寺尾克美によれば、歴代の防衛庁長官で全責任を取らなかったのは中曽根だけで、「風見鶏」さながら渡り歩いて総理大臣にまで登りつめた後、「憲法改正ができないので〈専守防衛〉という〈政治的捏造語〉を唱えて、その場しのぎで今日まで国民や近隣諸国を誤魔化して」きたとしている[15]。そして寺尾克美は、後年自衛隊を退官後、加害者である三島の行為を「義挙」と総括し、憲法改正を訴える日本会議の活動家となった[15]
  16. ^ しかし、そんな司馬遼太郎も自身の晩年には、三島の予言と同じように、バブル期から平成時代の日本人の拝金主義や倫理喪失をしきりに嘆いて憂うようになった[40]
  17. ^ 櫻井秀勲は、「『ナルシシズムに腹が立つ』といった若手作家」(柴田翔のこと)を含め、三島の自決直後に批判的コメントをした者の何人かは、生前は三島のことを「先生!」と呼んで媚び「生きている間は(三島を)尊敬していた人たちである」と述べている[73]
  18. ^ この時、何人かの編集者がデスマスクを取ることを遺族に訊いたが、必要ないだろうという返事を受けて実行されなかった[99]
  19. ^ その光景を見た川端康成が、「薔薇って怖いね」と増田貴光の耳元で呟いたという[100]
  20. ^ 本当は、「公威さん、立派でしたよ」と倭文重は言いたかったが、周りのお客から芝居がかりと思われそうで躊躇してしまったのだという[101]
  21. ^ 雑誌『論争ジャーナル』は、豊島区高田本町2-1467のビルの一室をオフィスとする育誠社から発刊された[132]
  22. ^ この当時、朝日新聞は文化大革命に対して礼賛一色であったが、他の新聞報道では、中国大陸から香港まで泳いで逃げてくる民衆が、の餌食になっているという記事もあったという[139][140]
  23. ^ 「ヴィクトリア」の場所を、銀座8丁目とする出典もある[146]
  24. ^ 日学同の宮崎正弘は、森田らの除籍理由を「共産主義に魂を売り渡したため」と『日本学生新聞』に書いた[140][170]
  25. ^ リフレッシャーコースは、2泊3日で、3・6・9・11月に年4回行われた[172]
  26. ^ 楯の会の全員の旅費や滞在費、食費や雑費、制服代などの費用はすべて、三島が賄っていたが、田中清玄が「自分は三島と楯の会のパトロンである」と財界で吹聴していたことが三島の耳に入ってきたことが、楯の会の名誉を重んじる三島の怒りを買った[61]林房雄は、中辻和彦と万代潔の退会問題に触れ、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、三島から、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と電話があったとして、以下のように語っている[131]
    彼らは小澤開作氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。やがて雑誌も出て、後援者が増え、多少の金が集まるにつれて、急速に変質して行った。(中略)
    ある“大先輩”の一人は、「ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連中みたいな奴らばかりだった」とまで極言した。(中略)「楯の会」はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された。 — 林房雄「悲しみの琴」[131]
  27. ^ 7月配布の第2回は「戦争の放棄」、9月配布の第3回は「『非常事態法』について」と続いた[186]
  28. ^ この「緑色の蛇」の意味が何なのか考え続けたヘンリー・スコット・ストークスは、1990年(平成2年)頃に突然、「米ドル」(緑色の紙幣)のことだと解ったと徳岡孝夫に告げた[40]
  29. ^ 小川正洋はこの日に交際していた女性と入籍し、そのことを2人に告げた[19]
  30. ^ 三島が蓮田に献じた哀悼の句は、〈古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす〉[215]
  31. ^ なお、この後半の続きでは以下のように、自身の行動に絡めて人間の運命について語っている。
    小林秀雄が言ってますけど、人間は死んだとき初めて人間になる。人間の形をとると言うんです。なぜかというと、運命がヘルプしますから。運命がなければ、人間は人間の形をとれないんです。ところが、生きているうちは、その人間の運命は何かわからないんですよ、予言者でなければ。運命が決定しなければ、その人間の形は完成しないでしょう。それで、やっていることはみんなバカげたことに見えるんですね。でも、運命が芸術家を決定する。 — 三島由紀夫「ジョン・ベスターとの対談」(1970年2月)[228]
  32. ^ これに関し、裁判を傍聴していた三島の父・平岡梓は、裁判長が審理を離れて独断的な陽明学論や武士道論を展開したことに疑問を呈している[37]
  33. ^ なお、小賀正義の母も「生長の家」に入信していた[7]

出典

  1. ^ 「終章 『三島事件』か『楯の会事件』か」(保阪 2001, pp. 303–322)
  2. ^ 高橋新太郎「『楯の会』事件裁判」(旧事典 1976, pp. 247–248)
  3. ^ 「第一章 三島の自決はどう捉えられてきたか」(柴田 2012, pp. 16–35)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 「春の雪 ■第一回公判」(裁判 1972, pp. 20–59)
  5. ^ 「警視庁創立140年特別展 みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」アンケート結果 第11位から50位まで 更新日:2016年3月31日(警視庁ホームページ)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「第四章 時計と日本刀」(猪瀬 1999, pp. 321–449)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi 「国会を占拠せよ ■第二回公判」(裁判 1972, pp. 59–82)
  8. ^ a b c d e f g h i j k 「総監が危ない ■第四回公判」(裁判 1972, pp. 99–108)
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「第一章 三島由紀夫の死」(再訂 2005, pp. 5–62)
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 「第四章 憂国の黙契」(生涯 1998, pp. 233–331)
  11. ^ a b c d e f g h i 「『散ること花と……』■第三回公判」(裁判 1972, pp. 83–98)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「第十章 十一月二十五日」(徳岡 1999, pp. 238–269)
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「第四章 市ヶ谷台にて」(彰彦 2015, pp. 199–230)
  14. ^ a b c 「『三島事件』をふり返って」(原 2004, pp. 119–127)
  15. ^ a b c d e f g 寺尾克美「三島由紀夫に斬られた男」(憂国忌 2020, pp. 47–72)
  16. ^ 本来は極左担当
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「第一章『最後の一年は熱烈に待つた』」(保阪 2001, pp. 57–92)
  18. ^ 「要求書」(昭和45年11月25日)。36巻 2003, pp. 680–681
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「第七章」(梓 1996, pp. 233–256)
  20. ^ a b c 「XI 市ヶ谷台上へ」(山本 1980, pp. 243–266)
  21. ^ a b c d e f g h i 「第七章 昭和45年11月25日」(年表 1990, pp. 219–228)
  22. ^ a b c 「無題」(市ヶ谷駐屯地にて演説 1970年11月25日)。36巻 2003, pp. 682–683、日録 1996, pp. 418–420、小室 1985, pp. 186–189、三島由紀夫演説文”. 2007年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月7日閲覧。
  23. ^ a b c d e f g h 」(市ヶ谷駐屯地にて撒布 1970年11月25日)。36巻 2003, pp. 402–406、保阪 2001, pp. 18–25
  24. ^ a b c 「三、さむらい『三島由紀夫』と『楯の会』」(松浦 2010, pp. 59–144)
  25. ^ 「第四章 その時、そしてこれから――四期 野田隆史」(火群 2005, pp. 169–172)
  26. ^ 林房雄との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年10月。夏目書房、2002年3月増補再刊)。39巻 2004, pp. 554–682
  27. ^ a b c 「最後の電話」(ポリタイア 1973年6月号)。小島 1996, pp. 8–24、群像18 1990, pp. 78–88
  28. ^ 水木しげるコミック昭和史 第8巻』(講談社、1989年12月)p.15
  29. ^ a b 徳岡孝夫「”あの事件”から四十年――三島由紀夫と私(前編)」(正論 2010年10月号)
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「『死ぬことはやさしい』■第六回公判」(裁判 1972, pp. 117–122)
  31. ^ a b c d e f g h 「国を思う純粋な心に ■第五回公判」(裁判 1972, pp. 109–116)
  32. ^ a b c d e f g h i j 「第四章 三島事件前後の真相」(持丸 2010, pp. 125–190)
  33. ^ 呉智英「『本気』の時代の終焉」(中条 2005, pp. 188–203)
  34. ^ a b 「非常の連帯 ■第十六回公判」(裁判 1972, pp. 245–270)
  35. ^ a b c d 「第四章 『楯の会』と『自衛隊』」(再訂 2005, pp. 157–184)
  36. ^ a b c d e f g h 「第五章 三島・森田蹶起と日本の運命」(村田 2015, pp. 223–286)
  37. ^ a b 「三島裁判に思う」(梓・続 1974, pp. 5–72)
  38. ^ 佐々淳行「そのとき、私は……」(諸君! 1999年12月号)。彰彦 2015, pp. 226–227
  39. ^ a b 佐々淳行 『連合赤軍「あさま山荘」事件』 文藝春秋、1996年
  40. ^ a b c d e f g 「第十一章 死後」(徳岡 1999, pp. 238–269)
  41. ^ a b c d e f g h i j k 「第八章」(年表 1990, pp. 229–245)
  42. ^ a b c 「第五章 自決の背景」(小室 1985, pp. 121–198)
  43. ^ 佐藤栄作 (1997). 佐藤栄作日記〈第4巻〉. 朝日新聞社. p. 210 
  44. ^ 日本経済新聞 編『私の履歴書 保守政権の担い手』日本経済新聞出版社、2007年、542-544頁。ISBN 978-4532193737 
  45. ^ a b c d e f g h i j k l m 「第一章」(梓 1996, pp. 7–30)
  46. ^ 川端康成「三島由紀夫」(臨時 1971)。群像18 1990, pp. 229–231、評論1 1982, pp. 615–619、一草一花 1991, pp. 215–218
  47. ^ 川端康成「『もったいない死に方だった』=かけつけた川端氏」(朝日新聞 1970年11月26日号 3面、週刊サンケイ 1970年12月31日号)。再訂 2005, p. 57、保阪 2001, p. 86
  48. ^ 石原慎太郎「三島由紀夫の日蝕――その栄光と陶酔の虚構」(没後20 1990, pp. 116–181)。石原 1991
  49. ^ 石原慎太郎「かけつけた石原氏ぼう然」(読売新聞夕刊 1970年11月25日号 10面)。年表 1990, p. 230
  50. ^ a b c d e f g h i j k 「年譜 昭和45年11月25日-12月」42巻 2005, pp. 330–334
  51. ^ 「昭和45年11月25日」(日録 1996, pp. 412–422)
  52. ^ a b c d 「没後」(日録 1996, pp. 423–426)
  53. ^ a b 舩坂弘『関ノ孫六――三島由紀夫、その死の秘密』(光文社カッパ・ブックス、1973年)。岡山 2014, p. 105
  54. ^ 「関の孫六の刃こぼれ ■第八回公判」(裁判 1972, pp. 151–156)
  55. ^ a b 「十九 佩刀『関ノ孫六』の由来」(岡山 2014, pp. 103–108)
  56. ^ 「命令書」(昭和45年11月)。36巻 2003, pp. 678–679、再訂 2005, p. 236
  57. ^ a b c d e f 「第五章 三島事件の波紋」(再訂 2005, pp. 185–215)
  58. ^ 猪木正道『国を守る』(実業之日本社、1972年)
  59. ^ a b 「あとがき」(山本 1980, pp. 290–298)
  60. ^ a b 「XII 果てしなき民坊への道」(山本 1980, pp. 267–289)
  61. ^ a b c d e f g h 「第四章 邂逅、そして離別」(保阪 2001, pp. 189–240)
  62. ^ 「社説」(朝日新聞 1970年11月26日号)。年表 1990, p. 230
  63. ^ 「社説」(毎日新聞 1970年11月26日号 5面)。年表 1990, p. 230
  64. ^ a b c d e f 「春の嵐 ■第十七回公判」(裁判 1972, pp. 271–304)
  65. ^ a b ヘンリー・ミラー「特別寄稿」(週刊ポスト)。小室 1985, pp. 194–195
  66. ^ a b ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大だったか」(諸君!・総特集 三島由紀夫の死を見つめて 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 321–323
  67. ^ a b エドワード・G・サイデンステッカー(時事評論 1971年4月20日号)。裁判 1972, pp. 299–300
  68. ^ ドナルド・キーン(時事評論 1971年4月20日号)。裁判 1972, p. 300
  69. ^ 山田宗睦週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)。保阪 2001, pp. 88–89
  70. ^ 野間宏「錯誤にみちた文学・政治の短絡」(朝日ジャーナル 1970年12月6日号)。保阪 2001, p. 89
  71. ^ 司馬遼太郎「異常な三島事件に接して」(毎日新聞 1970年11月26日号 1面)。徳岡 1999, p. 290、中公編集 2010, pp. 133–135
  72. ^ 柴田翔「ナルシシズムに腹が立つ」(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)p.168
  73. ^ 「初めて三島邸を訪ねたときのこと」(櫻井 2020, pp. 21–26)
  74. ^ 中野重治(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)。保阪 2001, pp. 89–90
  75. ^ a b 小林秀雄「感想」(臨時 1971読本 1983, pp. 56–57
  76. ^ 村松剛「市谷台上の諌死」(週刊時事 1970年12月26日号)。保阪 2001, p. 81
  77. ^ 「“狂い死の思想” 美学の完結とは思えぬ」(朝日新聞夕刊 1970年11月26日号 10面)。橋川 1998, pp. 132–134
  78. ^ 保田與重郎「眼裏の太陽」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 230–239
  79. ^ a b 保田與重郎「天の時雨」(臨時 1971)。福田 1996, pp. 167–192
  80. ^ 高橋和巳「果敢な敵の死悲し」(サンケイ新聞 1970年11月26日号)。新読本 1990, pp. 130–131
  81. ^ 武田泰淳(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月12日号)。年表 1990, p. 231、保阪 2001, p. 86
  82. ^ 大岡昇平「生き残った者への証言」(文藝春秋 1972年2月号)。保阪 2001, p. 86
  83. ^ a b c 倉橋由美子「英雄の死」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 131–136、彼女 2020, pp. 143–150
  84. ^ 中井英夫「ケンタウロスの嘆き」(潮・特集 三島由紀夫 生と死の遍歴 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 302–311
  85. ^ a b 森茉莉「気ちがいはどっち?」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 96–99
  86. ^ 「革命哲学としての陽明学」(諸君! 1970年9月号)。行動学 1974, pp. 189–228、36巻 2003, pp. 277–310
  87. ^ a b c d e 石川淳「文芸時評 上・下――認識から行動への跳躍 割腹の必然はあったか 三島の死、『楯の会』で思想を固定 檄には見えぬ三島の姿」(朝日新聞夕刊 1970年12月24日-25日号)。「文林通言――昭和45年12月」として石川・評論15 1990, pp. 413–421
  88. ^ 石川淳「文芸時評 上・下(『太陽と鉄』、『古今集と新古今集』)――『肉体』の戦利品『青空』、『英雄』への道急ぐな 三島氏のまぼろしの旅」(朝日新聞夕刊 1970年4月27日-28日号)。「文林通言――昭和45年4月」として石川・評論15 1990, pp. 341–349
  89. ^ a b 吉本隆明「情況への発言――暫定的メモ」(試行 1971年2月・32号)。『詩的乾坤』(国文社、1974年9月)所収。読本 1983, pp. 60–65、夢ムック 2020, pp. 178–184
  90. ^ a b 「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死」(文學界・特集 三島由紀夫 1971年3月号)。磯田 1979, pp. 434–445
  91. ^ 「『占領憲法下の日本』に寄せる」(谷口雅春著『占領憲法下の日本』日本教文社、1969年5月)。『蘭陵王』(新潮社、1971年5月)、35巻 2003, pp. 450–452
  92. ^ a b 谷口雅春『愛国は生と死を超えて―三島由紀夫の行動の哲学』(日本教文社、1971年11月)pp.2-3
  93. ^ 文藝年鑑 1971, p. 318
  94. ^ 瀬戸内寂聴美輪明宏の対談「今こそ語る三島由紀夫」(すばる 22(10) 特集三島由紀夫没後30年・2000年10月号)pp.15-35における、p.32の美輪明宏の発言
  95. ^ 滝原健之「昭和元禄の忠臣蔵」(回想 1971, p. 168)
  96. ^ 島内景二「評伝 三島由紀夫 【めくるめく薔薇の世界へ、変なのは、どっち?】」(文豪ナビ 2004, pp. 146–148)
  97. ^ a b c 「第五章 野分の後」(彰彦 2015, pp. 231–253)
  98. ^ a b 「武人としての死 ■第九回公判」(裁判 1972, pp. 157–196)
  99. ^ a b c 「IV 行動者――訣別」(村松 1990, pp. 469–503)
  100. ^ a b c 増田元臣「美しい人間の本性」(月報34巻 2003
  101. ^ 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」(新潮 1976年12月号)。村松 1990, p. 503、群像18 1990, pp. 193–204、年表 1990, pp. 17, 21, 172, 192
  102. ^ 「既得権益化」で儲かる火葬場が、「中国系資本」に狙われている”. 週刊文春 - 清水 俊一. 2022年8月6日閲覧。
  103. ^ a b c d e f g 「第四章 その時、そしてこれから」(火群 2005, pp. 111–188)
  104. ^ a b 「プロローグ あれから四十年が経過した」「第一章『憂国忌』前史」憂国忌 2010, pp. 15–56
  105. ^ a b c d e f g h i j k 「年譜 昭和46年」42巻 2005, pp. 334–338
  106. ^ 「第六章 三島由紀夫の遺言状」(小室 1985, pp. 199–230)
  107. ^ a b c 「三島先生の葬儀」「付記として」(英子 2007, pp. 131–145)
  108. ^ a b 「第四章 新劇女優 村松英子」(岡山 2016, pp. 135–174)
  109. ^ a b c d e 「第六章」(梓 1996, pp. 206–232)
  110. ^ 「昭和46年」(日録 1996, pp. 427–432)
  111. ^ 伊藤好雄「召命――隊長三島の決起に取り残されて」(大吼 2008年7月夏季号・第261号)。村田 2015, pp. 292–298
  112. ^ a b c d 「倉持清宛ての封書」(昭和45年11月)。38巻 2004, pp. 495–496
  113. ^ 「愛と死の儀式 ■第十一回公判」(裁判 1972, pp. 203–214)
  114. ^ a b c d e 「『日本刀は武士の魂』 ■第七回公判」(裁判 1972, pp. 123–150)
  115. ^ a b c 「文武両道の達人 ■第十四回公判」(裁判 1972, pp. 227–232)
  116. ^ a b c 「憂国と法理の接点 ■第十八回公判」(裁判 1972, pp. 305–318)
  117. ^ 「エピローグ その後の楯の会」(村田 2015, pp. 287–303)
  118. ^ a b 「年譜 昭和55年」42巻 2005, pp. 347–348
  119. ^ 「序章 十年目の遺書」(保阪 2001, pp. 27–56)
  120. ^ 「捕章 三十一年目の『事実』」(保阪 2001, pp. 323–344)
  121. ^ 「年譜 平成12年」42巻 2005, pp. 368–369
  122. ^ 三島由紀夫研究会メルマガ通巻第1298号(2018年11月27日)
  123. ^ a b c d e f 「第二章 三島由紀夫と青年群像」(保阪 2001, pp. 93–143)
  124. ^ 「習字の伝承」(婦人生活 1968年1月号)。34巻 2003, pp. 612–614
  125. ^ a b c d 「第六章」(年表 1990, pp. 161–218)
  126. ^ 荒木 1971西法太郎「三島由紀夫と神風連(壱)」(三島由紀夫の総合研究、2007年5月7日・通巻第143号)
  127. ^ 「第二章 学習院という湖」(島内 2010, pp. 57–92)
  128. ^ a b 「祖国防衛隊はなぜ必要か?」(祖国防衛隊パンフレット 1968年1月)。34巻 2003, pp. 626–643
  129. ^ a b c 「IV 行動者――『狂気』の翼」(村松 1990, pp. 421–442)
  130. ^ 「青年について」(論争ジャーナル 1967年10月号)。34巻 2003, pp. 561–564
  131. ^ a b c 「第十七章」(林 1972, pp. 233–247)
  132. ^ a b c d e f g h i j 「第二章 ノサップ」(彰彦 2015, pp. 71–136)
  133. ^ a b c 持丸博「楯の会と論争ジャーナル」(32巻 2003月報)
  134. ^ 「年譜 昭和42年」42巻 2005, pp. 287–294
  135. ^ 藤島泰輔『天皇・青年・死――三島由紀夫の死をめぐって』(日本教文社、1973年)。保阪 2001, p. 105
  136. ^ 「第三章 『弱者天国』の時代に抗して」(持丸 2010, pp. 75–124)
  137. ^ 文化大革命に関する声明」(東京新聞 1967年3月1日号)。36巻 2003, p. 505
  138. ^ 「謎の人――NHK記者伊達宗克」(西 2020, pp. 189–207)
  139. ^ a b 「第一章 ナンパ系全学連が楯の会へ」(村田 2015, pp. 11–70)
  140. ^ a b c d e f 「第一章 曙」(火群 2005, pp. 9–80)
  141. ^ a b 「自衛隊を体験する――46日間のひそかな“入隊”」(サンデー毎日 1967年6月11日号)。34巻 2003, pp. 404–413
  142. ^ a b c d e 「三島帰郷兵に26の質問」(サンデー毎日 1967年6月11日号)。34巻 2003, pp. 414–422
  143. ^ a b 「第一章 忍」(杉山 2007, pp. 8–71)
  144. ^ a b c 「第一章 三島のクーデター論」(西村 2019, pp. 13–32)
  145. ^ a b c d e f 「日誌二」(必勝 2002, pp. 89–142)
  146. ^ 「第一章 名物学生」(彰彦 2015, pp. 9–70)
  147. ^ 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年8月25日付)。38巻 2004, pp. 455–457
  148. ^ 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年9月24日付)。38巻 2004, pp. 457–460
  149. ^ 「警察との唯一の絆――佐々淳行(一)」(西 2020, pp. 71–96)
  150. ^ a b c 「インドの印象」(毎日新聞 1967年10月20日-21日号)。34巻 2003, pp. 585–594
  151. ^ 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和42年10月20日付)。38巻 2004, p. 460
  152. ^ 「F104」(文藝 1968年2月号)。33巻 2003, pp. 570–580
  153. ^ a b c 「第五章」(梓 1996, pp. 165–205)
  154. ^ a b c 「III 祖国防衛論」(山本 1980, pp. 46–72)
  155. ^ 「年譜 昭和43年」42巻 2005, pp. 294–303
  156. ^ a b c 宮崎 1999
  157. ^ 「三輪良雄への書簡」(昭和43年3月18日、4月17日付)。38巻 2004, pp. 927–931
  158. ^ a b 「菊地勝夫宛ての書簡」(昭和43年4月17日付)。38巻 2004, pp. 463–464
  159. ^ 現物写真は火群 2005, p. 29
  160. ^ a b c d 「V 祖国防衛隊の訓練」(山本 1980, pp. 93–118)
  161. ^ a b c d e f g h i j k 「VI 民防活動の目標模索」(山本 1980, pp. 119–149)
  162. ^ a b 「第三章 『楯の会』の結成」(保阪 2001, pp. 143–188)
  163. ^ 「第二章 山本一佐と三島の複雑な関係」(西村 2019, pp. 33–70)
  164. ^ a b c d e f g h i j 「VII 近目標・治安出動に燃える」(山本 1980, pp. 150–175)
  165. ^ a b 「素人防衛論」(防衛大学校講演 1968年11月20日)。「防衛大学校最終講演全再録」(諸君! 2005年12月号)、補巻 2005村田 2015, pp. 46–47
  166. ^ a b c d e f 「終章 誰が三島を殺したのか」(山本 2001, pp. 192–237)
  167. ^ 高橋和巳との対談「大いなる過渡期の論理――行動する作家の思弁と責任」( 1969年11月号)。
  168. ^ 林房雄との対談「現代における右翼と左翼――リモコン左翼に誠なし」(流動 1969年12月号)。
  169. ^ 堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」(財界 1970年1月1日・15日号)。
  170. ^ a b c d e f g 「第三章 惜別の時」(彰彦 2015, pp. 137–198)
  171. ^ 「反革命宣言」(論争ジャーナル 1969年2月号)。35巻 2003, pp. 389–405、防衛論 2006, pp. 9–32
  172. ^ a b c d e f 「第二章 楯の会第五期生」(村田 2015, pp. 71–126)
  173. ^ 「IV 四つの河[5]行動の河」(ストークス 1985, pp. 276–346)
  174. ^ a b 「年譜 昭和44年」42巻 2005, pp. 304–315
  175. ^ 「自衛隊二分論」(20世紀 1969年4月号)。35巻 2003, pp. 434–446
  176. ^ a b c 「IV 行動者――集団という橋」(村松 1990, pp. 443–468)
  177. ^ a b c d e f g h 「VIII 遠・近目標混淆のなかで」(山本 1980, pp. 176–205)
  178. ^ 「昭和44年」(日録 1996, pp. 365–384)
  179. ^ 中河与一「魂の高まり」(浪曼 1975, pp. 126–128)
  180. ^ 「年譜」(昭和44年10月25日)(三島42巻 2005, p. 313)
  181. ^ 栗山理一池田勉塚本康彦の鼎談「雅を希求した壮烈な詩精神――蓮田善明 その生涯の熱情」(浪曼 1975, pp. 106–124)
  182. ^ 「『葉隠』に隠された孤高の決意」(櫻井 2020, pp. 45–48)
  183. ^ a b c d 「『天皇中心の国家を』■第十五回公判」(裁判 1972, pp. 233–244)
  184. ^ a b c d 「IX 絶望に耐えてなお活路を」(山本 1980, pp. 206–222)
  185. ^ 「第三章 草案につづられた三島の真意」(松藤 2007, pp. 89–118)
  186. ^ a b c d 「第五章 公然と非公然の谷間」(保阪 2001, pp. 241–302)
  187. ^ 村上一郎との対談「尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命」(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号)。40巻 2004, pp. 608–621
  188. ^ a b c d e 「X 決起の黙契軋み出す」(山本 1980, pp. 223–242)
  189. ^ a b 「問題提起 (一)新憲法における『日本』の欠落」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年5月)。36巻 2003, pp. 118–128
  190. ^ 「山本舜勝宛ての書簡」(昭和45年8月10日付)。38巻 2004, pp. 946–947
  191. ^ a b c 滝ヶ原分屯地は第二の我が家」(たきがはら 1970年9月25日創刊号)。36巻 2003, pp. 348–349
  192. ^ 「プロローグ――個人的な記憶」(ストークス 1985, pp. 3–30)
  193. ^ a b 「第四章」(梓 1996, pp. 103–164)
  194. ^ a b c d 「第二章 予兆」(火群 2005, pp. 81–102)
  195. ^ a b 「第十二章 決起1ヶ月前」(豊夫 2006, pp. 97–102)
  196. ^ 「第九章 その前夜まで」(徳岡 1999, pp. 212–237)
  197. ^ a b 福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」(論争ジャーナル 1967年11月号)。サムライ 1996, pp. 205–266、持丸 2010, pp. 13–24、39巻 2004, pp. 696–728
  198. ^ 若きサムラヒのために――政治について」(PocketパンチOh! 1969年5月号)。サムライ 1996, pp. 19–23、35巻 2003, pp. 58–60
  199. ^ 私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号)。32巻 2003, pp. 271–323
  200. ^ 「日々の分れ――死への一里塚」(ポリタイア 1973年7月号)。小島 1996, pp. 25–40
  201. ^ 粕谷 2006
  202. ^ 「私の顔」(毎日新聞 1954年9月19日号)。28巻 2003
  203. ^ 「『純文学とは?』その他」(雑誌・風景 1962年6月号)。32巻 2003
  204. ^ 「作中人物への傾斜」(ポリタイア 1973年10月号)。小島 1996, pp. 81–126
  205. ^ a b 「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」(早稲田大学大隈講堂 1968年10月3日)。防衛論 2006, pp. 232–298、40巻 2004, pp. 232–271
  206. ^ a b 「22 政治との関わりー――出てもらえませんか」(村上 2010, pp. 137–140)
  207. ^ 「年頭の迷ひ」(読売新聞 1967年1月1日号)。34巻 2003, pp. 284–287
  208. ^ 行動学入門」(PocketパンチOh! 1969年9月号-1970年8月号)。35巻 2003, pp. 606–658
  209. ^ 「劇画における若者論」サンデー毎日 1970年2月1日号)。36巻 2003, pp. 53–56
  210. ^ 「第六章 映画『憂国』」(堂本 2005, pp. 115–148)
  211. ^ a b 中康弘通「非装美に魅せられた作家 三島由紀夫の死――ナルシスはなぜ……」(噂 1972
  212. ^ a b c 果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」(サンケイ新聞夕刊 1970年7月7日号)。防衛論 2006, pp. 369–373、36巻 2003, pp. 212–215
  213. ^ a b 林房雄「弔辞」(新潮・三島由紀夫追悼特集号 1971年2月号)。追悼文 1999, pp. 86–91
  214. ^ 小高根 1970文學大系 1970, pp. 461–471(1968年9月号-11月号分)、再訂 2005, pp. 99–156、北影 2006, pp. 22–92
  215. ^ 「故蓮田善明への献詩」(おもかげ 1946年11月17日)。浪曼 1975冒頭に現物写真、37巻 2004, p. 762、再訂 2005, p. 152、島内 2010, p. 262
  216. ^ a b 吉田満「三島由紀夫の苦悩」(ユリイカ 1976, pp. 56–64)、中公編集 2010, pp. 136–146、吉田下巻 1986, pp. 127–143、戦中派 2015, pp. 70–88
  217. ^ M.K.シャルマ(訳:山田和)『喪失の国、日本―インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』(文藝春秋、2001年3月。文春文庫、2004年1月)pp.254-264。初出は雑誌『諸君!』1998年6月号-2000年10月号
  218. ^ a b 「最終章 手紙」(杉山 2007, pp. 185–219)
  219. ^ 舟橋聖一「壮烈な憤死」(東京新聞 1970年11月26日号)。進藤 1976, p. 507
  220. ^ a b c d 島田雅彦「三島由紀夫不在の三十年」(古井由吉平野啓一郎との座談)(没後30 2000, pp. 322–340)
  221. ^ 旧版『三島由紀夫全集35』(新潮社、1976年4月)所収
  222. ^ a b 田中美代子「三島事件」(事典 2000, pp. 604–606)
  223. ^ a b 「かなたへの疾走」(アルバム 1983, pp. 80–96)
  224. ^ 三島由紀夫 自決9カ月前の肉声…TBSに録音テープ(毎日新聞、2017年1月12日)
  225. ^ a b 三島由紀夫「平和憲法は偽善。憲法は、日本人に死ねと言っている」TBSが未公開テープの一部を公開・放送(産経ニュース、2017年1月12日)
  226. ^ a b 「新発見 自決九ヵ月前の未公開インタビュー――三島由紀夫 素顔の告白」(群像 2017, pp. 119–137)
  227. ^ 「三島由紀夫未公開インタビュー」(告白 2017, pp. 5–74)
  228. ^ a b 「三島由紀夫未公開インタビュー――マスコミと三島」(告白 2017, pp. 30–38)
  229. ^ 井上隆史「解題――楯の会会員」(38巻 2004, pp. 989–990)
  230. ^ a b 「第三章 昭和45年11月25日」(村田 2015, pp. 127–160)
  231. ^ 「楯の会会員たりし諸君へ」(昭和45年11月)。38巻 2004, pp. 672–673
  232. ^ 古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」(図書新聞 1970年12月12日、1971年1月1日号)。(新潮カセット版1989年4月、CD版2002年6月)。古林尚『戦後派作家は語る』(筑摩書房、1971年)、群像18 1990, pp. 205–228、40巻 2004, pp. 739–782
  233. ^ 古林尚「私は『死』を打ち明けられていた」(週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号 1970年12月11日号)。年表 1990, p. 212
  234. ^ 「第四章 その時、そしてこれから――一期 伊藤邦典」(火群 2005, pp. 177–180)
  235. ^ 伊達宗克徳岡孝夫によるインタビュー・平岡瑤子「三島家十四年の歳月」(諸君! 1985年1月号)。徳岡 1999, p. 305
  236. ^ 井上安正『冤罪の軌跡――弘前大学教授夫人殺害事件』(新潮社、2011年1月)
  237. ^ a b c 横尾忠則「追悼・高倉健 幻となった三島由紀夫映画」(中央 2015, pp. 200–201)
  238. ^ a b 「三島由紀夫 関連年表」(柴田 2012, pp. 268–279)
  239. ^ a b 「三島由紀夫と楯の会 年譜」(保阪 2001, pp. 355–373)
  240. ^ a b 「三島由紀夫年譜」(熊野 2020, pp. 253–270)
  241. ^ 「日誌一」(必勝 2002, pp. 23–88)
  242. ^ 「第六章 小説に描かれた三島由紀夫――蠱惑する文学と生涯」(岡山 2016, pp. 159–192)
  243. ^ リービ英雄「解説――加賀乙彦の大きな『反証言』」(加賀 1993, pp. 614–621)





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

1970年11月25日のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1970年11月25日のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの三島事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS