村上一郎とは? わかりやすく解説

村上一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/14 23:27 UTC 版)

村上 一郎(むらかみ いちろう、1920年大正9年)9月24日 - 1975年昭和50年)3月29日)は、日本文芸評論家歌人小説家日本浪曼派に共感した。

略歴

東京で生まれ、父はホーリネス教会派のクリスチャンだった[1]栃木県宇都宮市で育つ。旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を経て、東京商科大学(現・一橋大学予科に進学[1]高島善哉ゼミ出身[1]

1943年に大学を卒業後、短期現役士官として海軍に入隊[1][2]小島直記らは同期生にあたる。主計大尉として終戦を迎える。

戦後は三菱化成(現三菱ケミカルホールディングス)に入社したがやがて退社[1]。また久保栄に師事する[3]

その後、高島善哉の紹介で日本評論社編集部に入るが、『日本評論』の連載が連合国軍最高司令官総司令部のプレスコードに反し退社した[1]。以後文筆に専念する[3]

中野重治の一文に感激し日本共産党に入党したがのち脱党した[4]

1956年[3]桶谷秀昭らと『典型』を刊行する。のち、1964年から個人雑誌『無名鬼』を刊行する[3]。『無名鬼』には山中智恵子が多く寄稿した。また1961年から、吉本隆明谷川雁らとともに雑誌『試行』の編集などをしている。のちに『試行』は吉本の単独編集となる。

北一輝論』は三島由紀夫に高く評価された。二・二六事件を肯定する面では三島と同様か、またそれ以上であるが、三島の二・二六事件観はあくまで忠誠心の発露、至純の精神への感銘にすぎないが、村上はその理念にまで心を及ばせていた。二・二六事件の失敗、滅びを前提にする三島と異なり、二・二六事件がもし成功したら歴史は変わっていたと肯定論を更に進めて考える。三島が生前最後に出した手紙2通のうちの1通が村上一郎宛てであった[5]

1975年に武蔵野市の自宅で日本刀により頸動脈を切り自殺を遂げた。享年54。墓所は小平市小平霊園にある。村上の死に際しては思想的立場が大きく異なる丸山眞男からも悔やみの手紙が寄せられた(『磁場』の臨時増刊村上一郎追悼特集号に掲載)。

村上の死後、妻は再婚して、長谷えみ子の名前で人形作家、歌人として活動した。

内田信也(内田汽船設立者)は母方の叔父、窪田四郎(日魯漁業(現マルハニチロ)社長や富士製紙第5代社長等を歴任)は母方の伯父。石野信一(大蔵省事務次官や神戸銀行頭取を歴任)は村上の従兄にあたる。

著作

  • 『私たちの将来・私たちの職業 27 水産と漁業』三十書房、1958 
  • 『私たちの将来・私たちの職業 24 鉱山ではたらく人びと』三十書房、1958
  • 『私たちの将来・私たちの職業 22 機械工場』三十書房、1958
  • 久保栄論』弘文堂、1959 のち三一選書 
  • 『東国の人びと 第1部 (阿武隈郷士)』理論社、1959
  • 『東国の人びと 第2部 (天地幽明)』理論社、1959
  • 『私たちの将来・私たちの職業 13 電気・ガス・水道のしごと』三十書房、1959
  • 『私たちの将来・私たちの職業 5.学校研究所ではたらく人びと』三十書房、1959
  • 『人生とはなにか』社会思想社・現代教養文庫、1963
  • 『日本のロゴス』南北社、1963、国文社(増補版)、1970
  • 『世界の思想家たち 人と名言』社会思想社・現代教養文庫、1966、新版1981 
  • 『明日を生きよ 若き日の愛と真実』大和書房・銀河選書、1968 
  • 『非命の維新者』角川書店・角川新書、1968、のち角川文庫
  • 『明治維新の精神過程』春秋社、1968
  • 『浪曼者の魂魄 村上一郎評論集』冬樹社、1969
  • 北一輝論』三一書房、1970、のち角川文庫 
  • 『武蔵野断唱』構造社、1970
  • 『撃攘 村上一郎歌集』思潮社、1971
  • 『志気と感傷』国文社、1971
  • 『草莽論 その精神史的自己検証』大和書房、1972。ちくま学芸文庫、2018.2
  • 『日本軍隊論序説』新人物往来社、1973
  • 『イアリンの歌 評論集』国文社、1974
  • 萩原朔太郎ノート 抒情と憤怒』国文社、1975
  • 『振りさけ見れば』而立書房、1975
  • 『歌のこころ』冬樹社 1976
  • 村上一郎著作集』全12巻、国文社、1977-82。吉本隆明・金子兜太・桶谷秀昭監修
第1巻 (東国の人びと) 1996
第2巻 (短篇小説集) 1983
第3-4巻 (思想論) 1977-81
第5-6巻 (作家・思想家論) 1979-81
第8巻 (想芸論.人生論集) 1978
第10巻 (初期作品集) 1977

共編

  • 『記録文学への招待』杉浦明平共編 南北社 1963

対談

  • 『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』(対:三島由紀夫
1970年(昭和45年)、新聞「日本読書新聞」1月1日発行号(1969年12月29日・1970年1月5日合併号)に掲載されたもの。三島由紀夫対談集『尚武のこころ』(日本教文社、1970年9月)に所収。

翻訳

  • カール・ビヤンホフ『星はうすれゆく 失明してゆく少年期の追憶』光文社 1960

脚注

  1. ^ a b c d e f 桶谷秀昭「村上一郎『草莽論』解説」筑摩書房
  2. ^ 「村上 一郎」日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」
  3. ^ a b c d 日外アソシエーツ現代人物情報
  4. ^ 『回り道を選んだ男たち』303-304頁
  5. ^ 三島由紀夫 没後50年 生前最後の手紙につづられた言葉 /Mishima pondered on the Socrates’ death before Harakiri suicide.(TBS News、2020年11月26日)

関連項目

参考文献


村上一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「村上一郎」の解説

評論家小説家思想的差異超えて意気投合し三島村上の『北一輝論』(1970年)を高評価し、楯の会会員にも読ませた。三島村上との対談で、政治家たちの言葉対す軽視批判し、〈「十一月に死ぬぞ」といったら絶対死ななければいけない〉と発言した村上三島決起の報を聞き市ヶ谷駐屯地駆けつけ門衛誰何された際、「自分の官姓名正七位海軍主計大尉・村上一郎である」と叫んだとされ、三島自決5年後自宅自刃した。なお、三島生前最後に出した手紙の1通が村上一郎宛てであり(もう1通は学校先輩宛て)、その村上宛ての手紙の中で三島は、自身天皇主義について評論家から「分からない」と言われたことについて、〈わからぬものはわからぬでいい。もう解説する気にもなりません〉と記し最近プラトン『パイドン』や、『久坂玄瑞遺文集』を読んでいることを伝えながら、久坂玄瑞の2首の和歌(「あだなる命」「何か惜しまむ武士の」などの言葉がある)を抜き出し綴っている。

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「村上一郎」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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