両義性
両義性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 07:49 UTC 版)
クノーの全作品中でもっとも滑稽でユーモアに満ちた『ザジ』だが、しかしその笑いには読者をふと不安にさせるものが備わっている。それは、「あることを言いながら別の何かを聞かせる」ものであり、陽気なおふざけに真面目なものを含んだ、二重化されたメッセージとして読まれうるものである。 批評家からの論評も、『ザジ』の純文学でありながら過激な笑いの要素についての是非をめぐるものが大半だった。これについて、「偉大なるパタフィジックの功業」と称賛したのは、パスカル・ピアである。1950年にクノーは「コレージュ・ド・パタフィジック」の中心的メンバーとして参加しており、パタフィジックとは、「想像力による解決の科学」あるいは「メタ形而上学(メタフィジック)」を意味するアルフレッド・ジャリの造語である。パタフィジックは常軌を逸したナンセンスな笑いを誘うが、その滑稽さはつねに過剰かつ真摯でもある。 「笑うどころか泣きたくなった」と嘆いたのは、フランソワ・モーリアックであり、クロード・トワは「沈鬱な爆笑」として、クノーが次第にペシミスティックな傾向を強めていると指摘した。トワによれば、クノーのユーモアは、外的現実からもたらされる苦痛への対抗手段であり、笑いが強烈であればあるほどその苦痛が強いことを示している。また、ベルナール・パンゴーは、『ザジ』のコメディには罠が隠されていると述べている。罠とは、この小説には「意味」があるのではないかと考えてしまうことである。しかし、この小説は徹頭徹尾「見せかけ」でできており、その後ろにも下にも深みのある現実や安定した土台など存在しないのであり、これこそが『ザジ』の世界の特徴だとする。
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