両線の通勤輸送力増強計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:15 UTC 版)
「横須賀・総武快速線」の記事における「両線の通勤輸送力増強計画」の解説
詳細は「通勤五方面作戦」を参照 高度経済成長を迎えたころ、同じ線路(東海道本線旅客線)を共用して運行していた東京駅 - 大船駅間の東海道本線の小田原・熱海方面の列車(湘南電車)と、横須賀線の逗子・横須賀方面と直通する電車は、通勤ラッシュによる混雑が日を追うごとに深刻化し、増発を繰り返した結果、輸送力が限界に達していた。一方総武本線も朝のラッシュ時を中心に他の東京近郊の主要路線同様、混雑をきわめていた。そのような状況の中、国鉄千葉鉄道管理局(現・東日本旅客鉄道千葉支社)では様々な計画案が立案されていた。 一例として1962年(昭和37年)に発表された段階案では、 旧型車両8輌編成を101系10輌編成に置き換え、2割の輸送力増強を図る。 新宿駅での中央線上り快速電車と同様に、新小岩駅(案)に島式ホームを増設し交互発着を行うことで運転間隔を20秒短縮、さらに2割の輸送力増強を図る。 1965年(昭和40年) - 1970年(昭和45年)の間に御茶ノ水駅 - 市川駅、市川駅 - 津田沼駅、津田沼駅 - 千葉駅の3区間に分けて複々線化。急行線では1962年(昭和37年)より25分の時間短縮を図る。停車駅は市川駅、船橋駅、津田沼駅、千葉駅を予定。ただし、東京都内は未定とした。さらに貨物列車も分離し輸送力を2倍とする。 このほかにも、当時最高混雑区間であった亀戸駅 - 新小岩駅を先行して複々線化する案などがあった。 1965年(昭和40年)になると、日本国有鉄道(国鉄)は、混雑緩和と輸送力の増大を図るため、首都圏における通勤路線の輸送量増大プロジェクト「通勤五方面作戦」を策定した。これは国鉄が、1961年(昭和36年)度からの第2次5ヵ年計画を1964年(昭和39年)に打ち切り、1965年(昭和40年)度を初年度とする1971年(昭和46年)度までの7年間におよぶ第3次長期計画を策定、都市間旅客輸送、長距離貨物輸送とならび、大都市の通勤輸送増強が計画的に遂行されるようにしたもので、そのうちの都市近郊(東海道、中央、総武、常磐、東北)各線輸送力増強計画の一環として、総武本線では快速線と緩行線を分ける複々線化を、横須賀線では、東海道本線東京駅 - 小田原駅間の線路増設のうち、東京駅 - 大船駅間における横須賀線電車と湘南電車との別線化による、系統別の路線分離を計画した。
※この「両線の通勤輸送力増強計画」の解説は、「横須賀・総武快速線」の解説の一部です。
「両線の通勤輸送力増強計画」を含む「横須賀・総武快速線」の記事については、「横須賀・総武快速線」の概要を参照ください。
- 両線の通勤輸送力増強計画のページへのリンク