両統迭立後とは? わかりやすく解説

両統迭立後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 06:35 UTC 版)

大覚寺統」の記事における「両統迭立後」の解説

後二条天皇崩御後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇息子である)邦良親王成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王皇位を継がせようとする。だが、尊治親王後醍醐天皇として即位する皇位自身皇子継承させよう目論んだ。 これに後宇多法皇皇太子邦良親王反発する後醍醐天皇院政停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒画策するこのため大覚寺統そのもの分裂の危機迎える。持明院統鎌倉幕府邦良親王支援し親王急死するとその息子康仁親王持明院統光厳天皇皇太子据えて後醍醐天皇系への皇位継承拒絶する姿勢見せるが、元弘3年1333年)に鎌倉幕府滅亡し後醍醐天皇復位によって木寺宮家後二条天皇系)の皇位継承否認され事となった。 建武の新政により、一時皇統大覚寺統後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、2年半にして崩壊吉野逃れた大覚寺統天皇南朝)と、足利尊氏擁立された持明院統天皇北朝)の対立時代南北朝時代となる。 詳細は「南朝 (日本)」および「南北朝時代 (日本)」を参照 観応の擾乱の際、京都奪回し一時的に元号統一した正平一統)が、半年崩壊する。後に足利義満斡旋により、正式な譲位儀式を行うとともに今後皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統後亀山天皇三種の神器持明院統後小松天皇引き渡し南北朝分裂終わった明徳の和約1392年)による南北朝合一)。 しかし南朝方の入京にあたって神器帰還儀式行われたものの正式な譲位儀式行われず後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていない特例として上皇待遇」というものであった。そして以後皇位持明院統だけで継承されたため、大覚寺統の子孫は不満を抱き南朝遺臣宮中神器奪取して立てこもるなどの抵抗15世紀半ばまで続けた後南朝)。

※この「両統迭立後」の解説は、「大覚寺統」の解説の一部です。
「両統迭立後」を含む「大覚寺統」の記事については、「大覚寺統」の概要を参照ください。

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