両統迭立までとは? わかりやすく解説

両統迭立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 06:35 UTC 版)

大覚寺統」の記事における「両統迭立まで」の解説

正嘉2年1258年)、後嵯峨上皇後深草天皇(当時16歳)の同母恒仁親王(後の亀山天皇当時10歳)を皇太子とし、そして翌正元元年(1259年)には後深草天皇から恒仁親王譲位させた。後深草上皇にはその後皇子生まれたが、後嵯峨上皇文永5年(1268年)に後深草上皇の第2皇子煕仁親王(後の伏見天皇当時4歳)をさしおいて亀山天皇の第2皇子世仁親王(後の後宇多天皇当時2歳)を皇太子指名したその後後嵯峨上皇文永9年(1272年)に崩御するが、遺言状には後継者指名する文言がなく、ただ次代の治天の指名鎌倉幕府意向に従うようにという遺志だけが示された。このため後深草上皇亀山天皇それぞれ次代の治天となることを望んで争い裁定鎌倉幕府持ち込まれた。幕府は、後嵯峨上皇正妻であり後深草上皇亀山天皇生母でもある大宮院後嵯峨上皇真意がどちらにあったかを照会し大宮院亀山天皇の名を挙げたことから亀山天皇次の治天に指名したその結果亀山天皇はしばらく在位のまま政務執り文永11年(1274年)に皇太子世仁親王(当時8歳)に譲位した。 しかし、幕府後深草上皇の不満を受けて建治元年(1275年)に煕仁親王(当時11歳)を皇太子指名し将来後深草上皇次の治天となることを保証した。こうして発生した後深草亀山の間の対立は、幕府によって、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位継承両統迭立)し、院政を行うよう裁定された。

※この「両統迭立まで」の解説は、「大覚寺統」の解説の一部です。
「両統迭立まで」を含む「大覚寺統」の記事については、「大覚寺統」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「両統迭立まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「両統迭立まで」の関連用語

1
12% |||||

両統迭立までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



両統迭立までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大覚寺統 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS