秋かぜや身体ほどなる厠穴
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秋 |
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前 書 |
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評 言 |
肥だめのあるむかしの便所、ぽっかり空いた穴。その下の、地層のような糞尿の存在感に圧倒されたものだ。 「身体ほどなる」という措辞がこの句の要であり、私たちがひりだした糞尿への親和を暗示するが、しかし、すぐさま糞尿は脚の下で、その存在を主張し私たちを圧倒するのだ。 この両義性は私たちを混乱に陥れ、ついに「私」とは「私」の辺境にある、を知らしめることになる。 思考もまた同じだ。頭蓋は秋風に触れて、脳はすでに外に持ち出されているように感じる。果たして、私が思考するのか?否、どこか遠くで思考しているなにものかがあって、その思考が私の頭を通過しているだけなのか・・・・・と。 でも深刻になることはない、諧謔味のある糞尿譚と読む。脚下の糞尿の存在、そして秋風の頭蓋の思考。もし思考の住所は一千八百光年も離れた白鳥座のデネブだったならば、壮大な宇宙交歓図となり、愉しいではないか。 |
評 者 |
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備 考 |
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