幸福な結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:37 UTC 版)
「シャーリー・テンプル」の記事における「幸福な結婚」の解説
1950年12月に、22歳で結婚歴のないチャールズ・ブラック(英語:Charles Alden Black)海軍少佐と再婚する。この結婚にあたってFBI長官ジョン・エドガー・フーバーは前回の結婚の轍を踏ませないよう、部下に結婚相手の素行を調査させた。彼女はFBIから非常によい報告を受けたという。 ブラック家は先祖が1620年にメイフラワー号でイギリスからマサチューセッツへ移民してきた、清教徒の名門だった。チャールズの父はアメリカ最大手に数えられるパシフィック・ガス電気会社 (Pacific Gas and Electric Company (PG&E)) 会長で、チャールズは次男。地元カリフォルニアでは指折りの資産家の生まれでしかも独身だとよく噂の種にされた。アメリカ最難関の中高一貫私立男子校(プレップ・スクール)の一つで全寮制のホッチキス校 (en:The Hotchkiss School) からスタンフォード大学に進み、ハーバード大学大学院でMBAを取得、第二次世界大戦の徴兵で海軍情報将校に任命される。二人が知り合った頃は予備役であり、パイナップル栽培加工で有名なドール社の社長室付だった。結婚すると海軍に戻り1951年5月に中佐としてペンタゴンに赴任するため首都ワシントンへ転出。数年して退役するとテレビ会社アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABCネットワーク)の幹部を経てスタンフォード研究所の財務担当理事に就任、同研究所を退職後はアンペックス社の副社長から牡蠣・鮑・鮭の養殖に転じてマディーラ社を起業する。社長業と並行してサンタ・クララ大学 (en:Santa Clara University) の評議員に選ばれた。海洋学の専門家でもあるチャールズはタイタニック号発見にも貢献。また世界最高の超エリート会員制クラブボヘミアンクラブ・オブ・サンフランシスコ (Bohemian Club) の会員でもあり、趣味はサーフィンで結婚前は毎日のように海に通っていたという。 二人の結婚は「おとぎ話のような結婚」として注目された。彼女は彼が当時のアメリカで指折りの裕福な一族の生まれと知らず、勉強と軍務とサーフィンに明け暮れた彼は12歳からずっと映画を見なかったため彼女がシャーリー・テンプルだと分からず、そんな二人の恋が成就したからである。 結婚直後、女優と結婚したことを理由に夫チャールズが社交界名士録から名前を消される事態がおきる。アメリカの上流社会では演劇や映画を軽視するという清教徒の伝統がまだ強く、結婚相手が俳優の場合は社交界から締め出すという規則があった。国の誇りとまで言われ、上品さで有名な映画スターのシャーリーでさえ、例外ではなかった。夫は社交界名士録から名前を外されたことなど気にしなかったが、1950年12月に妻は22歳で映画界を引退。その3年後の1953年に1歳年下のオードリー・ヘプバーンが、『ローマの休日』で映画デビューをしたことを思えば、あまりにも早い引退だったと言えよう。それ以後、上流階級という言葉を使うことを彼女自身は嫌っても、富裕層の一員としての生活が2014年に至るまで続いた。 ワシントンへ引っ越したシャーリーはやがて室内装飾の趣味が高じて1954年にインテリア・デザイナーの資格を取り、仕事をしようとしたことがある。富裕層の個人の邸宅を対象にすることから、アメリカの上流階級の女性は当時よくこの分野で働いていた。その時の名刺には旧姓「テンプル」は入れず、「インテリア・デコレーター、シャーリー・T・ブラック」とだけ記しており、仕事を始めたばかりなのに相当な問い合わせがあったという。ただし初めて仕事先の邸宅に出向いたところ、シャーリー・テンプルに興味津々の女性が何人も待ち構えていたので、回れ右をして引き返すとそれきり仕事は辞めてしまった。 二人は非常に仲むつまじい夫婦で、シャーリーは子供が3人いる専業主婦として子育てに専念した。義理の父はドワイト・アイゼンハワー大統領と親交があり、シャーリーと夫チャールズも大統領と親しくなる。彼女は後に、歴代の大統領で一番好きな人物としてアイゼンハワーの名を挙げている。
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