幸福な結婚生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:48 UTC 版)
「マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「幸福な結婚生活」の解説
マクシミリアンは、当時辺境の地であったウィーンと比較し、ブルゴーニュ公国の繁栄に驚かされた。フランドル地方の貿易は盛んであるが、土砂の堆積により港湾機能を失いつつあるブルッヘ(ブリュージュ)に代わりアントウェルペンを拡大するなど、産業育成と貿易振興にも取り組んだ。宰相にはカロンドレ(英語版)を任命した。また、改革を通じてブルゴーニュの中央集権化を進めようとし、君主としても才覚を示し始めた。 1480年に長女マルグリットが、1481年に次男フランソワ(夭折)が立て続けに誕生した。政略結婚ではあったものの、マリーとの仲は、後世のマリア・テレジアとフランツ・シュテファン夫妻と並び称されるほどに円満で幸福だった。マリーは同時代には珍しく活動的な女性で、常にマクシミリアンについて乗馬や狩猟、スポーツを楽しんでいた。マクシミリアンはマリーに心酔し、彼女の自慢を故郷の学友に書き送っている。 1482年3月上旬、第4子を懐妊中のマリーは、当然の如く夫の白鷺猟に同伴し、そして落馬事故により重体となり、流産の末、3月27日に死亡する。死に先立つ3月24日、瀕死のマリーは「フィリップとマルグリット2人を公国の相続人に指定し、嫡男フィリップが15歳に達するまでは夫マクシミリアンをその後見人とする」遺言を認め、さらに3月27日、家臣に夫マクシミリアンに仕えるよう直々に言い残した。その夜、マクシミリアンが手を握ったままマリーは25歳で逝去した。
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