王女から修道女にとは? わかりやすく解説

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王女から修道女に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 14:50 UTC 版)

エルジェーベト (ハンガリー王女)」の記事における「王女から修道女に」の解説

ハンガリー王女としてシャーロシュパタク城に誕生した兄弟は6人おり、ハンガリー王ベーラ4世ブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の妃となったマリア列聖されたポルトガル王ディニス1世イザベル祖母にあたるアラゴン王ハイメ1世ヨランダなどがいる。また母方伯母であるシロンスクヘンリク1世ヤドヴィガヘートヴィヒ)、兄ベーラ4世の娘マルギトそれぞれ1267年1943年列聖父方の叔母ボヘミア王オタカル1世妃コンスタンツィエが産んだ従妹アネシュカ1989年列聖されている。 4歳時にテューリンゲン方伯でルートヴィング家のルートヴィヒ婚約しテューリンゲンに連れて来られた。当初婚約者目されていたヘルマン夭折したため、その弟のルートヴィヒ婚約者となったのであるルードヴィング家ヴェッティン家との対立といった神聖ローマ帝国内部政情にらんでのもので、王女であり東ローマ帝国皇帝とも親戚に当たるエルジェーベト貴重な政略結婚の具といえた。 アイゼナハにおいて1221年に14歳でルートヴィヒ4世結婚仲睦まじく幸福な結婚生活送り、三児をもうけた1223年頃に最初フランシスコ会修道士テューリンゲン訪れエリーザベトアッシジのフランチェスコ教え触れて信仰心篤くした。エリーザベト宮廷抜け出して当時忌み嫌われレプラ患者救済従事して非難されたとき、ルートヴィヒ4世は妻を庇った。1226年には高名なフランシスコ会修道士異端審問官コンラート・フォン・マールブルク宮廷迎えている。 1227年ルートヴィヒ4世第6回十字軍従軍 中に疫病のためオトラント死去し若くして未亡人となる。長男ヘルマンはまだ5歳だったため、ルートヴィヒ4世の弟ハインリヒ・ラスペテューリンゲン摂政となったおそらくは未亡人化粧料取り扱いめぐってハインリヒあるいは姑に疎まれヴァルトブルク城追われた。しばらく滞在したアイゼナハでは、豚小屋に住む境遇にまで身をやつした伝えられている。それを伝え聞いた伯母エリーザベト子供たち迎え行き、自らの伯父居城であるバンベルク城に送った。この伯父エリーザベト再婚薦めたが(その候補には当時独身だった神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世もいたという)、拒否して貞節守った1228年に夫の遺骨修道院埋葬した後、師父であるコンラートのいるマールブルク赴く聖フランシスコ会に入会してテューリンゲンから化粧料代金として受け取った2000マルク寄進し、マールブルク病院建設して貧民病人のために尽くしたコンラートによる厳し監督監視の下、エリザベート自身貧民のような生活をしたという。娘ゲルトルート2歳のときにエリーザベトから引き離され修道院送られた。1231年24歳死去

※この「王女から修道女に」の解説は、「エルジェーベト (ハンガリー王女)」の解説の一部です。
「王女から修道女に」を含む「エルジェーベト (ハンガリー王女)」の記事については、「エルジェーベト (ハンガリー王女)」の概要を参照ください。

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