もりた‐そうへい〔‐サウヘイ〕【森田草平】
森田草平
森田草平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 13:33 UTC 版)
森田 草平(もりた そうへい、1881年〈明治14年〉3月19日 - 1949年〈昭和24年〉12月14日)は、作家・翻訳家。本名:万戸 満平。夏目漱石の門下生の一人であるが、特に私生活での不祥事が多かったことから、門下生の中では異色の存在として扱われることが多い。
- ^ a b c d Ⅰ 単行本第一巻相当部分詳注 煤煙、国際日本文化研究センター
- ^ 東京を立つ前、明子は友人に「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり 孤独の旅路なり」という遺書を残しており、(つまり草平云々ではなく)自分のポリシーを全うするために死という行為を選ぶ、としている。
- ^ 一方の草平は事件後、漱石に対し「恋愛以上のものを求め、人格と人格との接触によって、霊と霊との結合を期待した」と心情を述べたものの、漱石からは「結局、遊びだ」と一蹴されている。
- ^ 草平を通して知った明子というキャラクターが、漱石の小説「三四郎」のヒロイン美禰子のモデルとなったとされている。
- ^ この連載が決定したことを漱石は草平に自ら伝えに行ったが留守であり、二度目に訪ねた際も留守であった。漱石は「どこを歩いて居るのか。あまり暢気にすると、向後もきっと好い事なき事受け合いに候」という叱責の手紙を残すが、草平がこれを読んで涙したのは翌朝である。
- ^ 小説「煤煙」のタイトルからのちに「煤煙事件」とも呼ばれたこの事件は当時、「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」と、新聞各紙はスキャンダラスに報道した。[1]
- ^ その一方で1909年6月27日から始まった漱石の連載小説「それから」の中で、漱石は登場人物に「煤煙」があまりうまくないと批評させている。
- ^ 戦後まもなく、東京渋谷の劇場の客席で草平を見た、と後に平塚らいてうが語っている。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)28頁
- ^ a b 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)330頁
- ^ 中勘助・内田百閒『中勘助・内田百閒集』(現代日本文學全集 75)筑摩書房 1956年、246-269頁、409頁(河盛好藏の解説)
- ^ 漱石と阿智村勝手に漱石文学館
- ^ a b Ⅱ 単行本第二巻相当部分詳注 煤煙、国際日本文化研究センター
- ^ 根岸正純「昭和初期の森田草平」『岐阜大学教養部研究報告』第10号、岐阜大学、1975年2月、102-113頁、ISSN 02863251、NAID 110009574325。
森田草平
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「「坊っちゃん」の時代」の記事における「森田草平」の解説
漱石の弟子。恋人だった平塚らいてうを伊集院に寝取られる(史実では心中未遂事件を起こしたのち、らいていと別れている)。漱石は彼が描いたらいてうのポオトレエトから「三四郎」を構想したとなっている。作中では「坊っちゃん」における「うらなり」のモデル。
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