心中未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/28 23:22 UTC 版)
1908年(明治41年)3月21日、会計検査院第四課長・平塚定二郎の次女で22歳の平塚明子の捜索願が出され、翌日友人宅に届いたハガキから宇都宮・日光方面の列車に乗ったことがわかり、栃木県警が捜索にあたったところ、23日に塩原温泉の山奥にある尾花峠(同地にその地名はなく尾頭峠が正しいとされる)で文学士の森田米松(白揚、のち草平と名乗る、当時27歳)とともに死に場所を探し彷徨っているところを警官に発見された。 当時森田は、成美女学校(東京麹町区飯田町)で英語教師をしていた生田長江らが女流文学者を育てる目的で校内で始めた閨秀文学会で与謝野晶子らとともに講師を務めており、同会には明子のほか山川菊栄ら15、6人の女性が聴講していた。明子は出奔前に友人に「恋のため人のために死するものにあらず。自己を貫かんがためなり。自己のシステムを全うせんがためなり」という遺書を残していた。 のちの明子の回想によると、雪山で彷徨ううち森田が「(意気地がなくて)人を殺すことはできない」と言って心中に使うつもりだった明子の懐刀を谷に投げ捨ててしまい、「金のあるうちだけ生きて野垂れ死にするのだ」などと言いだしてうずくまってしまったため、明子は腹立たしさと挫折感を味わいながらも、なんとか森田を励まして峠まで強行しようと雪の道を先に立って歩き出し、森田が動けなくなると、灌木の根元に座を作り、そこで森田を守って夜を明かす決心をし、すぐうとうとしてしまう森田が凍死しないか気遣いながら、明子自身は月夜に映し出された氷の山々の大パノラマに感激し、有頂天な幸福感と満足感に浸ったという。『煤烟』ではこの描写は僅かに二行たらずで、「名文には違いありますまいが、私のあの夜の感銘からすればあまりに物足らない死文字に思われます」と述べている。 警察に保護されたのち、森田は夏目漱石宅に身を隠し、明子は友人の手配で信州・松本郊外の農家で静養した。この事件により閨秀文学会は頓挫し、事件の後始末を任された夏目漱石と馬場胡蝶は解決策として平塚家に結婚を申し出、結婚など考えていなかった明子に呆れられた。事件の翌年、森田は『煤煙』の連載により有名作家となり、明子は1911年に『青鞜』を創刊して女性運動家平塚らいてうとなった。1915年には『時事新報』に乞われて、心中未遂事件をらいてう側の視点で描いた『峠』を連載したが、つわりにより中断し未完に終わった。
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