心中の企図とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
太宰と田部あつみが帝国ホテルに泊まった11月26日、二人とも先行きが見えない状況下に置かれていた。帝国ホテル宿泊後の二人の足取りははっきりとしないが、心中を企図するまでの3、4日の間、二人はともに過ごしていたと考えられる。太宰はカルモチンを購入しており、11月28日の夜、二人はカルモチンを服用の上、鎌倉の七里ケ浜付近の海岸で心中を図った。なお服薬の上、投身を図ったかどうかについてははっきりとしない。太宰が自殺を決意した要因は実家からの義絶が大きいと考えられているものの、田部あつみとの心中に至った理由についてはわからない点が多い。また生前、女性との心中を企図した芥川龍之介の模倣を指摘する意見もある。 結果として田部あつみは亡くなり、太宰は生き残った。後に事件の真相は太宰による田部シメ子の殺人であるとの臆測も生まれたが、11月29日の午前8時頃に救出された後、七里ケ浜の恵風園に収容された太宰は、自殺ほう助罪の容疑で取り調べを受けることになった。 電話で事件の通報を受けた津島文治は、事後処理に奔走することになる。まず部下に多額の現金を持たせた上で上京させ、まず太宰宅に家宅捜査が入ることを予期して書類等の焼却を行わせた。事件の担当刑事はたまたま6月に亡くなった太宰の兄、津島圭治の小学校の同級生であった。津島家側からの「格別の取り計らい」を依頼されたこの刑事は、書類が処分された後の太宰宅の家宅捜索を型通り行ったと考えられる。また事件を取り扱った横浜地方裁判所の裁判所長も津軽の出身者であり、津島家の依頼を受けて事件処理に配慮したと考えられる。結局、太宰と田部あつみが二人ともカルモチンを服用していたことと、太宰が胸部疾患にり患していたことから、厭世感に囚われたことによる心中であるとされて起訴猶予となった。刑事と裁判官が津軽出身者であったという偶然も味方したが、事件処理は大きなトラブルなく終了した。 太宰の心中未遂を知った小山初代は激怒した。結納を済ませながら自分以外の女と心中しようとしたことが太宰に対する怒りとなったのは当然のことであり、この事件は太宰と小山初代との関係性に亀裂が入る要因となった。しかし心中後の後処理が大きな問題を起こさずに終結したのを見た津島文治は、太宰と小山初代の婚姻を急いだ。事件後身を隠すために帰郷して碇ヶ関温泉の旅館にいた太宰は、1935年末、形ばかりの結婚式を挙げた。
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