津島家とは? わかりやすく解説

津島家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:22 UTC 版)

太宰治」の記事における「津島家」の解説

青森県北津軽郡金木村(のちの北津軽郡金木町現・青森県五所川原市)) 津島家の家系について様々な説があり、明確ではない。初代惣助豆腐売り歩く行商人だったという。1946年昭和21年)に発表した苦悩年鑑』のなかで「私の生れた家には、誇るべき系図何も無い。どこからか流れて来て、この津軽北端土着した百姓が、私たち祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助時代からであつた」と書いている。惣助油売り行商しながら金貸し身代築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海渡って津軽定住した一族であるとする伝承もあり、菩提寺南台寺墓碑でも祖先は“対馬姓”となっている。この“対馬姓”と刻まれた墓について、太宰の甥津島康一俳優)は、「どっからかもってたんじゃないかな」となにやら意味ありげな“対馬姓”の刻名を信用していない口ぶりで「うちの系図はやばいんですよ」と恥ずかしそうに述べている。 津島家を県下有数大地主押し上げた三代目惣助嘉瀬村山中家出身で、元の名を勇之助といった。1835年天保6年)に大百姓山中五郎次男として生まれ1859年安政6年)津島家の婿養子となった山中家先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。1867年慶応3年)に二代目惣助他界し家督相続し三代目惣助」を襲名した油売りのほか、木綿などの繊維製品扱い金貸しで財を蓄えて新興大地主となった1894年明治27年)に北津軽郡会議員大地主互選議員当選1895年明治28年)に北津軽郡所得税調査委員選挙当選1897年明治30年)、合資会社金木銀行」を設立。再び郡会大地主議員となり、県内多額納税者番付12位に入って貴族院議員互選資格手に入れた無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したであった跡取りがいなかったため婿養子惣五郎迎える。惣五郎にも跡取りがいなかったため源右衛門婿養子となった家紋は「鶴の丸」である。金木生家は源右衛門建造したもので、太宰治記念館 「斜陽館」として公開され国の重要文化財指定されている。

※この「津島家」の解説は、「太宰治」の解説の一部です。
「津島家」を含む「太宰治」の記事については、「太宰治」の概要を参照ください。

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