実家からの義絶とは? わかりやすく解説

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実家からの義絶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)

太宰治と自殺」の記事における「実家からの義絶」の解説

1930年3月3日太宰弘前高校卒業し4月20日には東京帝国大学入学する東京帝国大学入学後太宰左翼シンパとなっていく。そのような中で6月21日東京美術学校彫塑学んでいた兄の津島圭治が病死する。圭治は太宰実家津島家結びつけるかすがいのような役目果たしていたので、その死は太宰にとって大きな痛手となった。また圭治の死に際して上京した長兄津島文治は、太宰左翼活動に関する情報掴んだ一方弘前高校時代親密な関係となった小山初代は、太宰連絡取り合って所属していた置屋脱走し太宰のもとに向かう計画進めひそかに荷物少しづつ送り始めていた。9月30日太宰からの連絡受けた小山初代東京へ向かった巧妙に脱走計画立案したため、置屋からの追っ手小山初代身柄確保できなかった。しかし経過から考えて太宰ところに身を寄せたことは明らかであったため、実家では善後策話し合われた。 津島家当主であった兄の文治は、太宰との談判のために11月初旬上京した上京前家族会議での決定事項通り文治はまずは小山初代別れて学業専念するよう話したが、太宰が首を縦に振らないため、結婚承諾するかわりに分家除籍提案した表向き芸妓脱走させた上で同棲生活を始めた不始末がその理由であったが、内実大地主である実家立憲政友会若手政治家でもあった当主文治を、予想される左翼活動家検挙による打撃から守ることにあった太宰は兄文治提案了承した。しかし太宰としては兄からのいわば義絶通告大きな打撃受けた文治小山初代青森に連れ帰って置屋からの落籍手続き済ませた11月24日には津島修治太宰本名)名で小山家結納の品とともに多額金銭もたらされた。結納直前太宰の手もとに11月19日付で行われた分籍手続き後の戸籍謄本送り届けられてきた。実家から切り離されたことを実感した太宰であったが、その上結婚相手小山初代から手紙などの連絡はほとんど無かったショック焦燥感駆られた太宰連日のように酒を飲み歩いた

※この「実家からの義絶」の解説は、「太宰治と自殺」の解説の一部です。
「実家からの義絶」を含む「太宰治と自殺」の記事については、「太宰治と自殺」の概要を参照ください。

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