実家からの義絶
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1930年3月3日、太宰は弘前高校を卒業し、4月20日には東京帝国大学に入学する。東京帝国大学に入学後、太宰は左翼のシンパとなっていく。そのような中で6月21日、東京の美術学校で彫塑を学んでいた兄の津島圭治が病死する。圭治は太宰と実家の津島家を結びつけるかすがいのような役目を果たしていたので、その死は太宰にとって大きな痛手となった。また圭治の死に際して上京した長兄の津島文治は、太宰の左翼活動に関する情報を掴んだ。 一方、弘前高校時代に親密な関係となった小山初代は、太宰と連絡を取り合って所属していた置屋を脱走して太宰のもとに向かう計画を進め、ひそかに荷物を少しづつ送り始めていた。9月30日、太宰からの連絡を受けた小山初代は東京へと向かった。巧妙に脱走計画を立案したため、置屋からの追っ手は小山初代の身柄を確保できなかった。しかし経過から考えて太宰のところに身を寄せたことは明らかであったため、実家では善後策が話し合われた。 津島家の当主であった兄の文治は、太宰との談判のために11月初旬に上京した。上京前の家族会議での決定事項通り、文治はまずは小山初代と別れて学業に専念するよう話したが、太宰が首を縦に振らないため、結婚を承諾するかわりに分家除籍を提案した。表向きは芸妓を脱走させた上で同棲生活を始めた不始末がその理由であったが、内実は大地主である実家と立憲政友会の若手政治家でもあった当主文治を、予想される左翼活動家の検挙による打撃から守ることにあった。 太宰は兄文治の提案を了承した。しかし太宰としては兄からのいわば義絶の通告に大きな打撃を受けた。文治は小山初代を青森に連れ帰って、置屋からの落籍手続きを済ませた。11月24日には津島修治(太宰の本名)名で小山家に結納の品とともに、多額の金銭がもたらされた。結納の直前、太宰の手もとに11月19日付で行われた分籍手続き後の戸籍謄本が送り届けられてきた。実家から切り離されたことを実感した太宰であったが、その上、結婚相手の小山初代から手紙などの連絡はほとんど無かった。ショックと焦燥感に駆られた太宰は連日のように酒を飲み歩いた。
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