実家との決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 06:17 UTC 版)
終戦後2、3年間は食料の確保に奔走した。巡業の際も食料を持参しなければ宿を確保するのは難しく、巡業の目的自体も食料の輸送が主であった。この時期にハルは実家との決別を決意している。そもそもの発端は巡業先で皮膚病を移されたことであった。天理教の教会では、皮膚病のせいで共同風呂で肩身の狭い思いをしていたハルのために、物資が窮乏していたにもかかわらず風呂を沸かすなど献身的な世話をしたが、ハルはそれを申し訳ないと感じ実家に身を寄せることにした。ハルはこういう時のために実家の名義で田畑を購入しており、冷たい仕打ちはされないだろうと踏んだのである。ところが実家は皮膚病にかかったハルを嫌がり、茶碗や布団を使わせるのも渋るなど、冷遇した。この対応に心を痛めたハルは、「二度とこの家には帰らない」と決意した。それは実家への思いを断ち切ることを意味した。かつてハルの手引きを務めたことのある山田シズ子によると、この出来事を境にハルの顔に「かげりがみえ始めた」という。1982年(昭和57年)3月、特別養護盲老人ホーム「胎内やすらぎの家」に入所していたハルは30数年ぶりに生まれ故郷を訪れ、「気がかりだった」という母親の墓参りをし、手向けに祭文松坂を披露した(ハルはこの墓参りを、胎内やすらぎの家入所後もっとも嬉しかった出来事に挙げている)が、かつてのいきさつを知らない親族が実家へ泊まっていくよう促してもそれに応じず、その日のうちに胎内やすらぎの家へ引き揚げてしまった。その後、老人ホームへ面会に訪れた親族が「いつでも帰ってきてくれ」と言っても、「もと出された家だすけ行かない」と拒んだ。死後、実家の墓に遺骨を納めさせないという決意もし、胎内やすらぎの家の敷地内に墓地が完成するとそこに納めることにした。ちなみに皮膚病は実家を出た後は「他に行くあてがない」ということで土田ミスのいる高瀬温泉へ、次いで湯沢温泉へ移動して湯治をした結果、2か月ほどで完治している。
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