実家の療養生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:38 UTC 版)
『のんきな患者』の発表からさかのぼること約4年半前、伊豆湯ヶ島での転地療養生活から東京に戻っていた梶井基次郎は、1928年(昭和3年)8月頃から、結核の悪化による呼吸困難で歩行もままならなくなり、友人らの強い説得により大阪の実家で静養することを決めた。基次郎は9月3日に東京を離れ(これが最後に見た東京となった)、大阪市住吉区阿倍野町99番地〈町名変更前〉(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)の家に帰郷した(詳細は梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へを参照)。 この阿倍野町の家は、一家が1924年(大正13年)9月から移った家で、階下で母・ヒサが小間物屋を営み、翌1925年(大正14年)7月からは長兄・謙一(エンジニア)の指南を受けた弟・勇が店の半分のスペースでラジオ店を開業していた。 1928年(昭和3年)9月に27歳の基次郎が実家に戻った当時、勇(20歳)は補充電池をオートバイで配達し店は繁盛していた。『のんきな患者』に出て来る〈末の弟〉はこの勇のことで、実際の末の弟・良吉(18歳)はこの時、高校受験をひかえた天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)の5年生であった。この家には放し飼いにしている〈風来猫〉が出入りしていた(詳細は愛撫 (小説)#猫との生活を参照)。 滋養のため当時としては贅沢なバターやチーズで朝食はパンを食べ、昼食も1人だけビフテキやカツレツあるいは刺身などを摂って、〈全力をつくして養生して〉いた基次郎の食費などで家計は圧迫されたが、愚痴をこぼしながらも母は小間物屋の少ない儲けをやりくりして基次郎の面倒をみた。 そんな中、翌1929年(昭和4年)1月4日の未明に父・宗太郎が心臓麻痺で急死。昨年暮に退職金の貯金が尽きたことを知った父は、正月から深酒をしていた。基次郎は自分が両親に与えた経済的負担や自身の不甲斐なさを反省し、〈道徳的な呵責〉を痛感した。
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