帝大中退後――大阪帰郷へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)
「梶井基次郎」の記事における「帝大中退後――大阪帰郷へ」の解説
1928年(昭和3年)5月、「器楽的幻覚」を『近代風景』に発表し、雑誌『創作月刊』創刊号には、自分の心の二つの相剋する働きを構造的にとらえた「冬の蠅」を発表した。この作品を阿部知二が『文藝都市』の合評欄で推奨した。 5月上旬、留守の間に北川冬彦に貸していた麻布区飯倉片町の下宿に戻った基次郎は、1階を間借りして「ある崖上の感情」を書いた。この時、北川の部屋には春から上京した伊藤整(東京商科大学)もいて、基次郎から「櫻の樹の下には」の話を聞いた。伊藤は下旬に父親の病気で郷里の北海道に帰ったため、基次郎はまた2階に移った。 基次郎は深川区のスラム街に住みたいと考えて見に行くが、結核の身には酷な場所だと考えて諦めた。同月には、広津和郎の紹介で日本橋で開業している口碑伝承的な漢方医に注射をしてもらった。この頃すでにレントゲンに写った基次郎の左の肺には卵大ほどの穴が開いていた。 7月、実験的な心理小説「ある崖上の感情」を『文藝都市』に発表し、舟橋聖一に激賞された。同人『文藝都市』の批評欄に載せる小説評を依頼され、プロレタリア文学系の雑誌『戦旗』と『文藝戦線』掲載小説の批評を引受けた。基次郎はこの時期、下宿の食事代も払えなくなり、東京府東多摩郡和田堀町堀ノ内(現・杉並区堀ノ内)の中谷孝雄の借家に身を寄せた。 8月、「『戦旗』『文藝戦線』七月号創作評」において、基次郎はプロレタリア文学の観念性を批判したが、窪川稲子(佐多稲子)や岩藤雪夫は好評した。また、『創作月刊』に掲載の牧野信一の「小川の流れ」にしきりに感心した。中旬に病状が重くなり、淀野隆三からそのことを伝え聞いた川端康成・秀子夫妻が心配して見舞いにきた。 基次郎は毎日のように血痰を吐き、しばしば呼吸困難に陥り歩けなくなるほど体の衰弱が甚だしくなってきた。身体を心配する友人たちの強い説得もあり、9月3日に大阪市住吉区阿倍野町の実家へ帰ることになった。1年ほど静養して再び飯倉片町の下宿に戻るつもりで手荷物以外はそのままにし、基次郎は東京駅で中谷孝雄、淀野隆三、飯島正、北川冬彦に見送られた。これが基次郎の見た最後の東京だった。 ラジオ店をしていた弟・勇が徴兵検査で甲種合格して入営することが決まり、今後の一家の家計の心配があったが、相変わらず基次郎は贅沢を好んだ。実家でも昼は1人だけビフテキやカツレツなどの肉食を食べ、バターは小岩井農場のものにこだわった。12月、北川冬彦の要望で、「櫻の樹の下には」が詩の季刊誌『詩と詩論』に発表され、「器楽的幻覚」も同誌に再掲載された。
※この「帝大中退後――大阪帰郷へ」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「帝大中退後――大阪帰郷へ」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。
- 帝大中退後――大阪帰郷へのページへのリンク