帝室御賞典の拡大と統一とは? わかりやすく解説

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帝室御賞典の拡大と統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:15 UTC 版)

天皇賞」の記事における「帝室御賞典の拡大と統一」の解説

明治天皇1899年明治32年)まで盛んに競馬場巡幸したが、同年不平等条約改正実現すると、以後一切競馬場へ赴かなくなり代わりに皇族親王名代として派遣するに留まっていた。これ以来天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。 1906年明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会創設された際、責任者だった子爵加納久宜明治天皇臨席賞品下賜打診した。しかし開催10日前になって、賞品下賜許されたものの、明治天皇巡幸却下された。このとき行われた皇室賞典競走当時新聞によって「帝室御賞典」と報じられ以後はこの名称で定着した明治天皇から賞品下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国競馬倶楽部広まった根岸東京続いて阪神へも年2回の下賜認められ馬産地の福島札幌函館小倉へは年1回下賜認められた。 全国各地で年に10行われるようになった帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件施行していたため、施行距離斤量負担重量)などの条件まちまちで、競走名と天皇から御賞典下賜される点以外に統一性はなかった。 一方1911年明治44年)に日本一競走馬決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走通称連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金競走だった(当時帝室御賞典の1着馬には賞品授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件馬齢重量で、出走できるのは各地競馬倶楽部行われた優勝戦の上位馬に限られていた。優勝内国産馬連合競走当初1回施行だったが、のちに年2回施行になった昭和入り戦時体制化が進むと、各地競馬倶楽部1936年昭和11年)に発足した日本競馬会統合され一本化されることになった日本競馬会1937年昭和12年)に各地競馬倶楽部統合し、年10施行していた帝室御賞典春に阪神競馬場(旧・鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することになった。年2回施行改められてから初の競走1937年昭和12年秋に東京行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞第1回としている。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され競走中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇皇室)から御賞典下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である。また、帝室御賞典古馬にとって最高峰競走として位置づけられ、東京優駿日本ダービー)など4歳馬の競走とは明確に線引きされた。 こうして「統一」された新し帝室御賞典は、競走馬として日本一決めるだけでなく、将来種牡馬選別するための最高の能力検査でもあった。また、天皇頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民馬主)や農民畜産家)にとって生涯の名誉となった

※この「帝室御賞典の拡大と統一」の解説は、「天皇賞」の解説の一部です。
「帝室御賞典の拡大と統一」を含む「天皇賞」の記事については、「天皇賞」の概要を参照ください。

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