帝展再改組から終戦まで
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1936年(昭和11年)6月の帝展再改組のため、第二部会文展に辻も参加を表明。同年文展監査展の審査を行った。 1937年(昭和12年)4月、大阪市立美術館で開催された明治大正昭和三聖代名作美術展に「無花果畑」が選出され出品された。また同年6月には『辻永邦風油彩花卉画集』を美術工芸会から刊行した。同年10月、帝展再改組によって新しくなった第1回文展に審査員として参加、「志賀高原の秋」を出品し京都市美術館買い上げ。 1939年(昭和14年)9月、師岡田三郎助死去。 1940年(昭和15年)10月、紀元二千六百年奉祝美術展の委員となり、同展に「秋映ゆ」を出品。翌1941年(昭和16年)2月、フランス領インドシナ半島に赴いたが政情不安定のため直ちに帰国した。 1942年(昭和17年)、台湾総督府美術展審査のため制作を兼ねて台湾に赴き11月に帰京した。同年、美術団体連盟解消に伴い新しく結成された美術家連盟に辻も他作家40余名と共に参加。 1943年(昭和18年)5月には横山大観を会長とする日本美術報国会が設立、辻は木村荘八と共に同会第二部委員に選出された。1944年(昭和19年)10月の第1回軍事援護美術展に「匂ふ山桜」を出品したほか、戦時特別文展には「箱根の秋」を出品した。 1945年(昭和20年)5月、空襲のため住居が焼失した。
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