猫との生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 08:31 UTC 版)
梶井基次郎は、犬を好きになろうとしても〈まだちよつとコワイ〉という不信の意識があったが、それに比べ猫の方は手放しで好きであった。実家では〈風来猫〉を放し飼いにしていたが、基次郎は、特に鼠をよく捕る猫を〈素性のいゝ奴〉とし、〈鼠の捕れない猫は頓間で猛獣性がなくて結局面白い奴といふだけの話になる〉、〈鼠をよく捕つた猫は永く家族が忘れない〉と語っている。 1928年(昭和3年)8月中旬から呼吸困難で歩けなくなるほど結核が進み、衰弱が激しくなった基次郎は、友人達の強い勧めで9月に東京を離れ、大阪市住吉区阿倍野町99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)の実家に戻り養生生活を送っていた(詳細は梶井基次郎#帝大中退後――大阪帰郷へを参照)。 外出もままならない基次郎とって、放し飼いの白猫・ノボなど、3匹の猫を相手に暮らすのがその頃の日常であった。ノボは、夜になると外に出て〈夜遊び〉に余念がなく、夜中に基次郎の寝床に帰って来て、基次郎が起きる時に一緒に起きていた。 1929年(昭和4年)1月に父・宗太郎が急死し、2月に友人の近藤直人が基次郎を見舞いに京都からやって来た。近藤が膝に乗ったノボの耳をしきりに抓っていたのが基次郎の印象に残った。主人の宗太郎の死のせいか、やがてノボは梶井家に居つかなくなっていった。「ノボ」という名前は宗太郎が付けていた。 『愛撫』の中でも描かれているように、基次郎は猫の前足の裏を自分の瞼に当てることも実際にやっていたが、〈風来猫〉だったので、仲町貞子(北川冬彦の当時の妻)のように猫の病気の世話までするほどの習慣はなかった。 僕は猫で誰も恐らくこんなことはやつたことがないだらうと思ふことを一つ君に伝授しよう。それは猫の前足の裏を予め拭いておいて、自分は仰向に寝て猫を顔の上へ立たせるんだ、彼女の前足が各々こちらの両方の眼玉の上を踏むやうにして。つまり踏んで貰ふんだな。勿論眼は閉じてゐる。すると温かいやうな冷つこいやうななんとも云へない気持がして、眼が安まるやうな親しいやうなとてもいゝ気持になるんだ。滑稽なことには猫は空吹く風で、うつかり踏み外せば遠慮なく顔に爪を立てるにちがひない。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和4年9月11日付) また、第三高等学校時代からの友人・小山田嘉一(基次郎の「檸檬」をいち早く認めた人物)は1926年(大正15年)10月に6歳下の女性・久子と結婚したが、その久子夫人も猫好きであった。 新婚の小山田夫妻は1927年(昭和2年)2月に湯ヶ島滞在時の基次郎の宿「湯川屋」も訪問し、基次郎は新妻の久子夫人が滞在中に風邪を引かないように細やかな心遣いを見せ、妹のようにいたわっていた。基次郎が9月に10日間ほど東京に戻った時には、中野に住む小山田の新婚の家にも寄っていた。 小山田の細君も猫好きらしいな。あの人の抱いてゐる猫を持つたらとてもいゝ匂いがした。ぬつてあるにちがひない。あんな可愛がり方もあるんだな。そしてちよつとモダンだ。猫を使ふコケツトリイだ。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和4年9月11日付)
※この「猫との生活」の解説は、「愛撫 (小説)」の解説の一部です。
「猫との生活」を含む「愛撫 (小説)」の記事については、「愛撫 (小説)」の概要を参照ください。
- 猫との生活のページへのリンク