湯ヶ島滞在
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梶井基次郎は転地療養のため1926年(昭和元年)の大晦日から伊豆湯ヶ島を訪れ、川端康成の紹介で1927年(昭和2年)元旦から「湯川屋」に長期滞在するようになった(詳細は梶井基次郎#伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊を参照)。2月中旬頃、大仁にかかっていた動物園の動物が下田へ移動する際、貨物自動車に載せられない大きな象やラクダが街道上を歩いていった。その時、地域の小学校も臨時休校になり、ふだん静かな山里は一大イベントで賑わった。子供や村人に混じって基次郎と川端夫妻もその珍しい行進見物を楽しんだ。 一行が去った後も基次郎は、〈どこか あの日の巨大な足跡でも残つてゐないか〉と、伊豆の踊子に喩えたその〈可憐なものが歩いてゐる〉光景を心から〈想望〉し、その後も川端と2人で動物たちの話題に興じた。春になると「湯川屋」の真向いからは、世古峡の断崖に生える染井吉野が見られ、4月には満開の美しい山桜を眺めた。都会では見られない風景や植物や昆虫、動物の生態(河鹿の交尾、生け捕りにされた藪熊など)は、その後の基次郎の作品の題材になっていった。4月に川端は横光利一の結婚披露宴出席を機に湯ヶ島を離れて東京に戻ったが、病状が一進一退の基次郎はその湯ヶ島の山里に長逗留することになった。 山の便りをお知らせいたします。櫻は八重がまだ咲き残つてゐます つつじが火がついたやうに咲いて来ました 石楠花は湯本館の玄関のところにあるのが一昨日一輪、今日は浄簾の滝の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ蕾の紅もさしてゐない位です (中略)今年山で春に会ひ私のなによりの驚きは冬葉の落ち尽してゐた雑木林が薄紅に薄緑に若芽の瓦斯体を纏ひはじめた美しさでした これが日に日に生長してゆく眺めは私をよろこばせ、情なくさせ、そしてとうとう茫然とさせてしまひました — 梶井基次郎「川端康成宛ての書簡」(昭和2年4月30日付) 基次郎は、渓を下りて狩野川の支流・猫越川の川岸で河鹿を観察したり、ウスバカゲロウを見たりと様々な自然風景を眺めて魅せられていた。 谷をうすばかげろうが上つてゆく、この虫は此頃実に多い、此の間も今日河鹿を見たところで、岩の間の水溜りに それの数知れぬ一群が死んでゐた、水に泛んでゐる羽根で その水たまりは石油を流したやうな色がついてゐた — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年5月6日付) 6月頃には、川端の勧めで湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎とも知り合いとなるが、萩原も湯ヶ島の桜に魅了され多くの作品を書いた。この年の12月には、すでに『櫻の樹の下には』は創作・構想されていたとされる。翌1928年(昭和3年)3月のノートには、『冬の蠅』の草稿、ボードレールの『巴里の憂鬱』の「エピローグ」の英訳の写しと共に、以下のような記述がある。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる私逹は溪に沿つた街道の午後を散歩してゐた。 —梶井基次郎「日記 草稿――第十二帖」(昭和3年・昭和4年)
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