湯ヶ島滞在とは? わかりやすく解説

湯ヶ島滞在

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 23:50 UTC 版)

櫻の樹の下には」の記事における「湯ヶ島滞在」の解説

梶井基次郎転地療養のため1926年昭和元年)の大晦日から伊豆湯ヶ島訪れ川端康成紹介1927年昭和2年元旦から「湯川屋」に長期滞在するようになった詳細梶井基次郎#伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊参照)。2月中旬頃、大仁かかっていた動物園動物下田移動する際、貨物自動車載せられない大きな象やラクダ街道上を歩いていった。その時地域小学校臨時休校になり、ふだん静かな山里一大イベントで賑わった。子供村人混じって次郎川端夫妻もその珍しい行進見物楽しんだ一行去った後も基次郎は、〈どこか あの日巨大な足跡でも残つてゐないか〉と、伊豆の踊子喩えたその〈可憐なものが歩いてゐる〉光景心から想望〉し、その後川端2人動物たち話題興じた春になると「湯川屋」の真向いからは、世古峡の断崖生え染井吉野見られ4月には満開美しい山眺めた都会では見られない風景植物昆虫動物生態河鹿交尾生け捕りにされた熊など)は、その後の基次郎作品題材になっていった。4月川端横光利一結婚披露宴出席機に湯ヶ島離れて東京戻ったが、病状一進一退の基次郎はその湯ヶ島山里長逗留することになった。 山の便りお知らせいたします八重がまだ咲き残つてゐます つつじが火がついたやうに咲いて来ました 石楠花湯本館の玄関ところにあるのが一昨日一輪今日は浄簾の滝の方で満開一株見ましたが大抵はまだの紅もさしてゐない位です (中略今年山で春に会ひ私のなにより驚き冬葉落ち尽してゐた雑木林薄紅薄緑若芽瓦斯体を纏ひはじめた美しさでした これが日に日に生長してゆく眺めは私をよろこばせ、情なくさせ、そしてとうとう茫然とさせてしまひました — 梶井基次郎川端康成宛て書簡」(昭和2年4月30日付) 基次郎は、渓を下りて狩野川支流猫越川川岸河鹿観察したり、ウスバカゲロウ見たりと様々な自然風景眺めて魅せられていた。 谷をうすばかげろうが上つてゆく、この此頃実に多い、此の間今日河鹿見たところで、岩の間水溜りに それの数知れぬ一群死んでゐた、に泛んでゐる羽根で その水たまり石油流したやうな色がついてゐた — 梶井基次郎淀野隆三宛て書簡」(昭和2年5月6日付) 6月頃には、川端勧め湯ヶ島にやって来た萩原朔太郎とも知り合いとなるが、萩原湯ヶ島魅了され多く作品書いたこの年12月には、すでに『櫻の樹の下には』は創作構想されていたとされる。翌1928年昭和3年3月ノートには、『冬の蠅』の草稿ボードレールの『巴里の憂鬱』の「エピローグ」の英訳写しと共に、以下のような記述がある。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる私逹は溪に沿つた街道午後散歩してゐた。 —梶井基次郎日記 草稿――第十二帖」(昭和3年昭和4年

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