湯ヶ島の冬
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『冬の蠅』の執筆から遡ること約1年半前の1926年(大正15年)の冬、梶井基次郎は同居人の三好達治の説得により転地療養を決意し、東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿生活から、大晦日に伊豆の湯ヶ島に行った(詳細は冬の日 (小説)#結核の進行・血痰を参照)。 1927年(昭和2年)の年が明け、基次郎は川端康成紹介の「湯川屋」で療養生活を送りながら、東京の下宿での心境を綴った『冬の日』の執筆に勤しんでいた。春にはやや結核の病状が落ちついて当初は数か月も経てば好転すると望みをかけていたが、その後思うようには回復せず、『冬の日』も予定していたような明るい結末でなく「未完」と付された(詳細は冬の日 (小説)#永遠の未完作)。 10月、基次郎は友人の近藤直人のいる京都帝大医学部付属病院の呼吸科の医者の診察を受けた。思った以上に重症だと診断され、来春まで静養するよう通告されて補血剤を処方された。回復の淡い期待もなくなり絶望的になった後、大阪市住吉区阿倍野町(現・阿倍野区王子町)の実家に立ち寄り、家の経済状態の苦しさと両親の老いも見た基次郎は改めて職業作家への決意をした。 両親は随分老いぼれた、僕は老年といふことを両親を通して眺めた、可愛さうだ 僕も早く独立してやらねばいけない、湯ヶ島にゐて創作に熱中することだけ それだけしか方法はない、一生懸命にやる、 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年10月19日付) 基次郎は湯ヶ島に戻った後、草稿「闇への書」を書き始めた(詳細は蒼穹 (小説)#作品背景を参照)。秋から冬に移行する季節の寂しさを身にしみ、〈僕は現れて来る冬景色ばかりを苦にしてゐる〉と弱気な心持になったり、日光浴や服薬で症状を抑えたりして過ごした。 一年経つても依然希望は新しくならない。変転の多かるべき二十七歳頃の身体を病気とは云ひながらなにもせず湯ヶ島へ埋めてしまつたのはわれながら腑甲斐なく思ふ 心に生じた徴候は生きるよりも寧ろ死へ突入しようとする傾向だ(しかしこれは現実的にといふよりも観念的であるから現実的な心配はいらない) 僕の観念は愛を拒否しはじめ社会共存から脱しようとし、日光より闇を嬉ばうとしてゐる。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和2年12月14日付) こうして筆を進めていた草稿「闇への書」から『蒼穹』『筧の話』が創作されるが、『冬の蠅』も同時期の湯ヶ島での不安や絶望の心境を生かした作品に含まれ、その地で迎える2度目の冬が舞台となっている。
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