湯ヶ島の冬とは? わかりやすく解説

湯ヶ島の冬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 15:39 UTC 版)

冬の蠅」の記事における「湯ヶ島の冬」の解説

冬の蠅』の執筆から遡ること約1年半前の1926年大正15年)の冬、梶井基次郎同居人三好達治説得により転地療養決意し東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿生活から、大晦日伊豆湯ヶ島行った詳細冬の日 (小説)#結核の進行・血痰参照)。 1927年昭和2年)の年が明け、基次郎川端康成紹介の「湯川屋」で療養生活を送りながら、東京下宿での心境綴った冬の日』の執筆勤しんでいた。春にはやや結核病状落ちついて当初は数か月経てば好転する望みをかけていたが、その後思うようには回復せず、『冬の日』も予定してたような明る結末でなく「未完」と付された(詳細冬の日 (小説)#永遠の未完作)。 10月、基次郎友人近藤直人のいる京都帝大医学部付属病院呼吸科の医者診察受けた思った以上に重症だと診断され来春まで静養するよう通告されて補血剤を処方された。回復淡い期待なくなり絶望的になった後、大阪市住吉区阿倍野町(現・阿倍野区王子町)の実家立ち寄り、家の経済状態苦しさ両親老い見た次郎改め職業作家へ決意をした。 両親は随分老いぼれた、僕は老年といふことを両親通して眺めた可愛さうだ 僕も早く独立してやらねばいけない、湯ヶ島にゐて創作熱中することだけ それだけしか方法はない、一生懸命にやる、 — 梶井基次郎淀野隆三宛て書簡」(昭和2年10月19日付) 基次郎湯ヶ島戻った後、草稿「闇への書」を書き始めた詳細蒼穹 (小説)#作品背景参照)。秋から冬に移行する季節の寂しさを身にしみ、〈僕は現れて来る冬景色ばかりを苦にしてゐる〉と弱気心持になったり、日光浴服薬症状抑えたりして過ごした一年経つても依然希望新しくならない変転の多かるべき二十七歳頃の身体病気とは云ひながらなにもせず湯ヶ島埋めてしまつたのはわれながら甲斐なく思ふ 心生じた徴候生きるよりも寧ろ死へ突入しようとする傾向だ(しかしこれは現実的にといふよりも観念的であるから現実的な心配はいらない) 僕の観念は愛を拒否しはじめ社会共存から脱しようとし、日光より闇を嬉ばうとしてゐる。 — 梶井基次郎北川冬彦宛て書簡」(昭和2年12月14日付) こうして筆を進めていた草稿「闇への書」から『蒼穹』『筧の話』が創作されるが、『冬の蠅』も同時期の湯ヶ島での不安や絶望心境生かした作品含まれ、その地で迎え2度目の冬が舞台となっている。

※この「湯ヶ島の冬」の解説は、「冬の蠅」の解説の一部です。
「湯ヶ島の冬」を含む「冬の蠅」の記事については、「冬の蠅」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「湯ヶ島の冬」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「湯ヶ島の冬」の関連用語

1
4% |||||

湯ヶ島の冬のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



湯ヶ島の冬のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの冬の蠅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS