永遠の未完作
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1927年(昭和2年)4月の『青空』26号に発表された後篇の末尾には、「未完」と記されており、基次郎はこの続きを書くつもりであった。 同年2月の『青空』24号に前篇を発表し終えた時点の構想では、後篇は陰鬱な冬から、やがて梅の咲く春の気配が主人公に訪れる終り方であったが、実際はますます暗い心象のままの冬の結末となった。 一昨日冬の日の続き、十九枚書いて東京へ送りました。暗いものです。その暗さに負けてたうとう完結まで筆を伸すことは出来ませんでした。冬の日は割合自信のある作品です、(室生犀星が褒めてくれました。)四月号が出たら一度あなたのお言葉がききたいと思ひます。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(昭和2年3月17日付) 後篇の草稿は2月中から書き始められ、3月の4、5日頃から15日までに『青空』に載せる原稿として19枚ほどを書き終わるが、作品としての完成には至らなかった。 あれが終れなかつたのは残念だつた。然しどうしても仕方なかつた。出来も此度のは少し水がまざつてゐるやうに思ふ。まあこんなことはいゝ。君の賢明な批判をまつ、実際それまでは自分でなんとも云へない。一生懸命の作だつただけ。 — 梶井基次郎「淀野隆三宛ての書簡」(昭和2年3月17日付) 基次郎は後篇を発表した後も、その続きを書こうと思いつつ、書けば暗いものにならざるをえないことを自覚し、〈あの続きは最も憂鬱なるもので書く元気がまだ出ない〉と淀野隆三に告げていたが、その後には、その暗さを肯定的に捉え、続篇への意欲を見せてもいた。 一年経つても依然希望は新しくならない。変転の多かるべき二十七歳頃の身体を病気とは云ひながらなにもせず湯ヶ島へ埋めてしまつたのはわれながら腑甲斐なく思ふ 心に生じた徴候は生きるよりも寧ろ死へ突入しようとする傾向だ(しかしこれは現実的にといふよりも観念的であるから現実的な心配はいらない) 僕の観念は愛を拒否しはじめ社会共存から脱しようとし、日光より闇を嬉ばうとしてゐる。僕は此頃になつて「冬の日」の完結が書けるやうになつたことを感じてゐる 然しこんなことは人性の本然に反した矛盾で、対症療法的で、ある特殊な心の状態にしか価値を持たぬことだ 然し僕はそういつた思考を続け作を書くことを続ける決心をしてゐる。 — 梶井基次郎「北川冬彦宛ての書簡」(昭和2年12月14日付) なお草稿には、完成稿では登場しなかった医師・津枝が堯の下宿を訪ねる場面があり、津枝との会話で、〈死んだ延子が堯と一緒に東京にゐるやうに思へてならない〉という母の心情を知った堯が、はっとして陰鬱になるくだりがある。その挿話は堯の死を暗示させるようなものとなっているため、基次郎が自身の死を描くところまで考えていたと見られている。 丸山薫によると、基次郎が『冬の日』の結末について、「堯の死ぬところはどうしても書けない、書けば自分も死ぬやうな気がする」という言葉を三好達治に語った後に、郷里の大阪に帰っていったという。
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