結核の進行・血痰
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「冬の日 (小説)」の記事における「結核の進行・血痰」の解説
1924年(大正13年)に東京帝国大学文学部に入学し、翌1925年(大正14年)1月に同人誌『青空』を創刊した梶井基次郎は、三高時代のような狂的な泥酔や放蕩は治まったものの、神経衰弱のような気分になることがあり、銀座の高級レストラン「カフェー・ライオン」でビフテキなどのご馳走を食べ、贅沢な一流品を買っても満たされないものがあった。 1926年(大正15年)1月あたりから持病の結核がまた悪化し、春頃から再び泥酔して暴れる行状が出てくるようになった。夏の猛暑の中、『青空』の広告取りなどの無理がたたって病状が進み、9月下旬頃から血痰が長く続くようになった。基次郎は、麻布の医者から「右肺尖に水泡音(ラッセル)、左右肺尖に病竈あり」と診断されていた。 その後も体調は悪化し、11月に入ると6週間も血痰が続いた。ちょうどその頃病気だった飯島正の見舞いに行った際、たまたまそこに居合わせた医者に自分も診てもらった基次郎は、麻布の医者と同様の診断を受けて転地療養や食事療法を勧められていたが、年末には、東京帝国大学の卒業論文を出さなければならなかった。 病気は身体にばかりではなくこの頃の私の思想を実に頽廃的にしてゐます、私があたりまへの人ならその夏頃から既にどこへなりと行つて療養してゐる筈なのですが身体を用ふことの極端に少い生活をしてゐる私などにとつてはそれは致命的な苦痛ではないのです、私の不養生もつまりは遊民的な生活の所産です――そんな結果私の病気と生活とは親しくなりともにお互ひを深めて来たやうです。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(昭和2年1月2日付) 基次郎が当時住んでいた東京市麻布区飯倉片町32番地(現・港区麻布台3丁目4番21号)の下宿の隣部屋に10月から三好達治が同居しはじめていた。ある晩基次郎は「葡萄酒を見せてやらうか…美しいだらう…」と襖越しに三好に声をかけ、ガラスのコップを電灯にかざし透かして見せた。その美しい赤々としたものは、基次郎の血痰であった。 三好は基次郎の病状がかなり悪いことに気づいていた。そのため基次郎に、大学卒業をあきらめ転地療養を実行し、文筆で生計を立てることを強く勧めるが、学費を苦労して捻出している親のためにも卒業したかった基次郎は、まだ身体はなんとかなると考え、卒論提出を来年に延ばすつもりだった。しかし留年するなら学費は自分で稼ぐように母から通告されていた。 基次郎は、翻訳の仕事や少女小説を書くか、あるいは英語教師になるかして自活しようか考えるが、病状のことを思うと不安と憂鬱な気分に苛まれた。この頃に『冬の日』の執筆に一度取りかかっていたが一旦中断したままとなった。三好の説得を聞き入れて転地療養を決めた基次郎は、大晦日に伊豆の湯ヶ島に向け、〈亡命といふやうな感じ〉の気持で東京を発つことになった(その後の詳細は梶井基次郎#伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊を参照)。 湯ヶ島の旅館で孤独な正月を迎え、元日の夜にひどく体調を悪くした基次郎は、〈苦しかつたときには子供のやうにさみしかつた〉思いを痛感し、5日から改めて本格的に〈悲しい小説〉の『冬の日』の執筆に取り組み始めた。
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