結核の病状悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
1936年10月の東京武蔵野病院入院時の検査で左肺全般に乾湿性の音がしたため、太宰は左側肺結核にり患していると診断された。また入院中、結核性のものと考えられる37度台の微熱が継続していた。しかし精神科病院の東京武蔵野病院では、レントゲン検査や喀痰検査は実施されておらず、この時点での詳細な結核の病状ははっきりとせず、入院中に結核の治療は全く行われなかった。退院後も結核の治療を行うことはなく、そのまま放置された。 1940年1月には腰部に腫物が出来るが、それは結核性の膿瘍であった可能性が指摘されている。その頃の太宰は、少し無理をすると体調を崩す非安定な健康状態であった。1941年11月、徴兵検査を受けた際には胸部疾患の既往があるとの理由で不合格となっている。 戦後、流行作家となった太宰は相次ぐ執筆依頼、頻繁に訪れる出版関係者、また自身の飲酒などで体を休める間もない状況が続き、結核の病状は深刻化していた。山崎富栄の日記にもしばしば太宰が喀血したり血痰を出す場面が描写されており、太宰のもとを尋ねた編集者が大量喀血の場面に出くわしたこともあった。1948年1月末、山崎富栄は家主から事実上同居している太宰の結核が、一家に伝染するのではと恐れているので、ごみ箱に太宰の使ったちり紙を捨てないで欲しい、太宰の使った便所を消毒して欲しい等の要求を出されている。しかし太宰は通院服薬をする等の結核治療に取り組もうとはしなかった。友人には結核で病院に行ったら絶対安静を指示されるに決まっているので行かないと言い張り、大量の解熱鎮痛剤、ビタミン剤を山崎富栄に注射してもらいながら、連日大量飲酒、そして執筆を続けていた。
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