伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊
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「梶井基次郎」の記事における「伊豆湯ヶ島へ――『青空』廃刊」の解説
1926年(大正15年)11月、「『新潮』十月新人号小説評」を掲載した『青空』第21号を発行した。同人に北川冬彦、浅見篤、龍村謙(美術史学科)、英文科で八高出身の阿部知二と古澤安二郎が参加することになり、本郷4丁目の「青木堂」2階で顔合わせ会を開いた。彼らは22号から同人になった。 基次郎は夏からの無理が重なっていて、喀血がひどくなり、「君は一日も早く、君の文筆で生計を立てるより外はない、卒業証書を貰つたつて仕方がないではないか」という三好達治の勧めもあり伊豆で日光療養しようかと考えた。 自分の進学のために苦労した親への申し訳なさから悩んだが、卒業論文提出を断念した基次郎は、昭和と元号が改まった12月の暮、品川駅を発ち、衰弱した身を癒すため伊豆に行った。現地の人から暖かな西伊豆を勧められたが、吉奈で気が変り、基次郎は2歳年上の作家・川端康成のいる湯ヶ島温泉に向った。 宇賀康らが以前宿泊したという「落合楼」に入るが長逗留は断われ、「湯本館」に滞在中の川端を訪ねてみた。『青空』を寄贈されていた川端は、飯島正や北川冬彦の名を知っていた。川端は基次郎と会話中、ちょうど部屋に遊びに来た板前・大川久一に相談し、狩野川の支流・猫越川の崖沿いの宿「湯川屋」を基次郎に紹介した。 1927年(昭和2年)元旦、「落合楼」を出た基次郎は「湯川屋」に移り、宿代も一泊4円のところ、3食付きで半額の2円にしてもらった。川端の宿へそのことを報告に行き、雑誌『文藝戦線』や『辻馬車』の話を聞いていると、岸田国士がやって来たので辞去した。 基次郎はこの地で、これまで書いてきた感覚的な世界を、さらに比喩や象徴を多用し悲しみの詩的世界にした「冬の日」(前篇・後篇)を3月まで執筆した。その間、川端の宿へ通って囲碁を教わり、川端の『伊豆の踊子』の刊行の校正を手伝った。 梶井君は大晦日の日から湯ヶ島に来てゐる。「伊豆の踊子」の校正ではずいぶん厄介を掛けた。「十六歳の日記」を入れることが出来たのは梶井君のお蔭である。私自身が忘れてゐた作を梶井君が思ひ出させてくれた。(中略)梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐しく深い人柄を持つてゐる。植物や動物の頓狂な話を私によく同君と取り交した。「青空」の同人が四五人も入れ替り立ち替り梶井君の見舞ひに来て、私はそのみんなに会つた。今は三好達治君がゐる。淀野隆三君はいいお茶を送つてくれた。 — 川端康成「『伊豆の踊子』の装幀その他」 2月、「冬の日」(前篇)を掲載した『青空』第24号が発行された。この作品は同人に好評で、三好達治はいきなり室生犀星に送り、犀星が褒めた。基次郎は同人たちの思想上の違いを、〈ポルシェビスト〉対〈アナーキスト〉と喩え、自身の立場を〈資本主義的芸術の先端リヤリスチック シンボリズムの刃渡りをやります〉とした。3月から松村一雄(国文科。八高出身)が同人に参加した。川端が散歩の途中に、『伊豆の踊子』の装幀者の吉田謙吉や、『辻馬車』同人の小野勇、藤沢桓夫を連れて「湯川屋」に遊びに来たこともあった。 4月、「冬の日」(後篇)を掲載した『青空』第26号が発行された。この号で小林馨と清水芳夫が抜けた。川端康成は横光利一の結婚式出席を機に湯ヶ島を離れたが基次郎はまだ残った。その後、血痰が続いて長く歩くと高熱が出て、東京に帰れない思いで苦しんだ。この月、『辻馬車』掲載の中野重治の評論に感心した。5月、『青空』27号で浅見篤と忽那吉之助が抜け、三高出身の青木義久(京都府立医大)が加入した。「湯本館」にアナーキストの新居格が宿泊し、藤沢桓夫と一緒に「湯川屋」の基次郎を訪ねてきた。 6月、『青空』28号が発行されたが、この月から北川冬彦、三好達治、淀野隆三が脱退を決めた。同人会で雑誌の終刊が決定され、この号が最後となった。阿部知二、古澤安二郎らが新たに同人誌『糧道時代』を紀伊国屋書店から発刊する計画をし、基次郎も手紙で知らされたが、またいつか『青空』を再興することを考えていた基次郎は誘いを辞退した。
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