伊豆流罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)
弘長元年(1261年)5月12日、鎌倉に戻った日蓮は幕府によって拘束され、伊豆の伊東に流罪となった。その際、俎岩(まないたいわ)という岩礁に置き去りにされた、あるいは川奈の漁師・船守弥三郎の保護を受けたという伝説があるが、いずれも根拠のない伝承に過ぎない。「船守弥三郎許御書」は真筆が現存せず、偽書説が強く出されているので、根拠にはならない。 伊豆流罪中、日蓮の監視に当たったのは伊東の地頭・伊東八郎左衛門祐光であった。八郎左衛門は念仏者だったが、病を得た折、日蓮の祈念によって平癒したので、日蓮に帰依した。また、伊豆流罪中、日蓮が岩本実相寺に滞在していた時に門下となった日興が伊豆に赴いて日蓮に供奉したとされる。 日蓮は伊豆流罪中に「四恩抄」を著し、松葉ヶ谷法難・伊豆流罪などの法難が法華経の行者であることの証明であると位置づけ、また「教機時国抄」を著していわゆる「宗教の五綱」の教判を明確にしている。 弘長3年(1263年)2月22日、日蓮は伊豆流罪を赦免された。その赦免は、「聖人御難事」に「故最明寺殿の日蓮をゆるしし」とあることから北条時頼の判断によるものと判断される。
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