松葉ヶ谷法難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 00:31 UTC 版)
日蓮四大法難と呼ばれるものの一つ。日蓮が、文応元年(1260)7月16日)に鎌倉幕府の五代執権北条時頼へ『立正安国論』を提出し、その内容が当時起こっていた地震、異常気象、疫病、飢餓は、法然を始めとする念仏教や禅教などの邪教に起因するものとし、幕府へ宗教政策の転換(正法を法華経とする)を促す内容であったため、その約1ヶ月後の8月27日に浄土教信者である念仏者たちによって草庵を夜間襲撃・焼き討ちされた事件を言う。 日蓮は富木常忍のいる下総国中山に避難した。襲撃の黒幕に幕府為政者、鎌倉宗教界の実力者である北条重時、6代執権北条長時(極楽寺北条氏)、大仏朝直、極楽寺忍性、蘭渓道隆、念阿良忠がいたと言われる。その後、日蓮は鎌倉に戻り、弘長元年(1261)5月12日に伊豆(伊東)へ流罪(伊豆流罪)となる。
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