松葉ヶ谷の法難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:32 UTC 版)
しかし「立正安国論」による国家諫暁は鎌倉幕府から完全に無視された。その一方で日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、文応元年(1260年)8月27日の夜、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された(松葉ヶ谷の法難)。この法難の背後には執権・北条長時とその父・北条重時(北条時頼の岳父)の意思があったと推定される。 日蓮は草庵襲撃の危難を免れたが、もはや鎌倉にいられる状況ではなくなった。そこで、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、弘教活動を展開したとされる。この時期に下総国在住の大田乗明・曾谷教信・秋元太郎らが日蓮に帰依したと伝えられる。
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