心中と遺体の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
1948年6月10日、山崎富栄は山崎家の菩提寺とお茶の水美容学校跡を訪ねている。13日には野川アヤノ宅に下宿している家族に、山崎富栄は大切に使っていた来客用の小皿を手渡している。また13日には太田静子宛に太宰と心中する旨の手紙を送っている。同日午後4時頃、太宰と山崎富栄は富栄の部屋に一緒に入った。その晩、山崎富栄は隣の飲み屋に3回ないし4回、ウイスキーを分けてもらいに来た。深夜、太宰と山崎富栄は近くの玉川上水に入水したと推定される。 翌日、太宰と山崎富栄が午後になっても姿を見せないため、家主の野川アヤノが部屋を覗いてみたところ、線香の香りが立ち込めた室内はきちんと整理され、灰皿には太宰が使用した栄養剤のアンプルが山のようになっていて、前日に炊いたご飯がそのまま残されていた。 本箱代わりとしていた柳行李上には太宰と山崎富栄の写真が並び貼り付けられた台紙が立てかけられ、小さな机上には妻美知子らに宛てた遺書、友人の伊馬春部に宛てた伊藤左千夫の短歌「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」と書かれた色紙、そして斜陽の種本とした太田静子の日記、山崎富栄の日記、新聞連載中のグッド・バイの校正刷りと原稿などが並べられていた。更に部屋の中央には和服やその他の品が整理して置かれ、それぞれに返品先、形見分けとして渡す先が明記されていた。 6月14日夜、それぞれの家族により太宰と山崎富栄の捜索願が三鷹警察署に出された。翌15日早朝、野川アヤノ宅近くの玉川上水の土手に、草がなぎ倒され何かが滑り落ちたような跡が発見され、そこにはビールの小瓶ほどのガラス瓶、青い小瓶、小さなガラス皿、はさみ、化粧袋などが置かれていた。6月16日、各新聞社は一斉に太宰が山崎富栄と情死したのではないかとの報道を始め、芥川龍之介の自殺時以来の騒動となった。 太宰と山崎富栄が入水した現場は、当時、玉川上水の幅が狭くなった地点で流れが速く、しかも水量も多かった。そのため入水した死体も上がらぬ魔の淵と呼ばれていた。二人の遺体はなかなか見つからなかったが、6月19日早朝、推定入水場所から約1キロメートル下流で、通行人が二人の水死体を発見した。遺体は固く抱き合った状態で発見され、お互いの腰部を赤い紐で結びあっていた。死亡後5日が経過しており、遺体は水にふやけ、腐敗が進み強い異臭が漂っていた。遺体を玉川上水から引き揚げた編集者のうち一人が、二人の腰部を結び付けていた紐を切った。その後両者の遺体は引き離され、太宰の遺体は出版社が用意した棺に安置された。山崎富栄の遺体もやや遅れて棺に納められた。 太宰と山崎富栄の遺体は友人知人の立ち合いの上で、三鷹警察署の警察医と三鷹署から検事局経由で依頼を受けて派遣された慶應義塾大学の法医学教室の医師により検視が行われた。検視の結果、毒物を服用した痕跡は認められず、殺人等の事件性も無く水死であると判断され、解剖は行われなかった。検視後、太宰の遺体は美知子の意向により自宅ではなく火葬場に直接搬送された。太宰の友人の中から一緒の火葬場でも良いのではとの意見が出されたものの、太宰の実家である津島家の強硬な反対もあって、別々の火葬場で火葬された。 太宰の遺体は荼毘に付された後、一周忌の1949年6月、生前の太宰の希望に従って、三鷹にある禅林寺の森鴎外の墓の前に葬られた。山崎富栄は生前、太宰と比翼塚に葬られることを希望していた。太宰の葬儀の葬儀委員長を務めた豊島与志雄は比翼塚案を支持したが、他の賛同を得られず、何よりも津島家側の強い拒否によって分骨はおろか、遺髪や写真も太宰と共に葬ることを許されなかった。
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