心中事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 09:50 UTC 版)
大身である教行は、新吉原江戸町一丁目の妓楼大菱屋九右衛門抱えの遊女綾絹(綾衣とも。妻みつと同じ年の19歳)と深い仲になった。ところが綾絹の身柄を裕福な商人が身請けするという話を聞いたとも、吉原遊びが幕府の知れるところとなり、江戸を離され甲府勤番支配に回されることとなったともいうが、いずれにせよ教行は綾絹に会えなくなると思い詰め、正式な手続き無しで吉原から綾絹を連れ出し逃走した。しかし程なく追っ手に見つかり、進退窮した2人は餌指の家で天明5年(1785年)に心中した。 この当主の行動に藤枝家では、教行ではなく家人の辻団右衛門が死んだことにしてその死を隠蔽しようとしたが、やがて幕府役人に露見した。妻とその母本光院は縁者宅の一室に押し込め処分となり、大身旗本藤枝家は改易処分となった。 長男の貞吉は早世しており、改易ののち、次男の安十郎は外祖父の山田利寿のもとに寓居し、三男の寅之助は従弟徳山貞栄のもとに寓居した。 江戸でこの事件は大きな話題を呼び「君とぬやるか(寝ようか)五千石とるかなんの五千石君とねよう」(大田南畝『俗耳鼓吹』(1788年))という端唄が流行した。実際の藤枝家の知行は4千石から4千500石であり5千石には満たないが、語呂が良いので俗謡にはそのように謡われた。この事件を題材にして、のちに岡本綺堂が「箕輪心中」を著した。
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心中事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:00 UTC 版)
名の知れたピアニストと人気芸妓の情死は新聞紙上を賑わせ、友人や関係者も談話を寄せた。従弟の近藤一郎(吉行エイスケらと同人雑誌『葡萄園』を刊行していた新興芸術派の小説家)は翌年『文藝春秋』に「従兄柏次郎の死」を寄稿し、その後柏次郎の自殺を題材にした作品「死への散歩」を『新潮』に発表した。 柏次郎は中学時代自殺未遂を経験し、日ごろから「死ぬ」が口癖のようなところがあった。自殺の前日も周囲に死を公言し、心配した友人らが自宅を訪ね、明け方引き揚げた直後に亡くなった。友人の福田蘭堂は「近藤には多額の借金があり、結婚も金目当てだった」と発言した。柏次郎は結婚式の前後も千代梅と一緒に過ごし、妻の持参金を借金返済に充てたが、3か月で新妻を実家に戻し、離婚を求めた新妻側に離婚料を求めたという。また、千代梅にも借金があった。
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