藤枝家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/18 09:30 UTC 版)
藤枝家 | |
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本姓 | 藤原北家花山院流飛鳥井家支流 |
家祖 | 藤枝雅之 |
種別 |
公家 華族(男爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京市渋谷区 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
藤枝家(ふじえけ[1])は、藤原北家花山院流飛鳥井家支流にあたる華族の男爵家。いわゆる「奈良華族」の一家[2]。
歴史
飛鳥井雅典の第二子雅之は、幼少期の幕末期に出家して奈良興福寺に入れられ清浄院住職となっていたが、明治元年(1868年)に勅命により復飾し、明治2年(1869年)に堂上格を与えられて一家を起こし藤枝を家号とした[1]。明治8年(1875年)に華族に列し[1]、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、翌8日に雅之が男爵に叙された[2]。雅之は春日神社宮司や奈良県庁勤務を経て貴族院の男爵議員に当選して務めた[1]。
その子雅脩は宮内省官僚を務めた。彼の代に藤枝男爵家の邸宅は東京市渋谷区幡谷笹塚町にあった[1]。
系譜
- 霞会館 1996, pp. 447–448参照。
(飛鳥井家) 飛鳥井雅典 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
飛鳥井雅望 | (藤枝家) 藤枝雅之1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雅脩2 | 経業 | 崇 | 茂林 | 信子 [注 1] | 基 | 末雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雅保3 | 節子 [注 2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美保子 [注 3] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
注釈
出典
参考文献
- 霞会館 『平成新修旧華族家系大成:下巻』吉川弘文館、1996年。
- 華族大鑑刊行会 『華族大鑑』〈日本人物誌叢書7〉日本図書センター、1990年。ISBN 978-4820540342。
- 小田部雄次 『華族:近代日本貴族の虚像と実像』〈中公新書1836〉中央公論新社、2006年。ISBN 978-4-12-101836-6。
藤枝家
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寛政重修諸家譜によると養子先の藤枝家は、徳川家光側室の順性院(お夏)の父の岡部重家を家祖とし、藤枝方孝の代で甲府藩家老になって藤枝氏を称した家であった。方教の代で綱重の子の徳川家宣が将軍に就任した際に、甲府藩領は幕府直轄として収公され、藩家臣団も幕臣として吸収されたため、藤枝家の子孫は幕府直参として4500石の大身旗本となった。なお、方教の長女が徳山秀栄(又兵衛)の正室となり、後に離別しているが、これが教行の祖母にあたる。 4500石の旗本寄合席になって以降の藤枝家は、教行の実父や舅のように目立った幕職に就くことはなく、武鑑において大叔父の藤枝豊忠が駿府加番や寄合金上納支配として掲載されている程度であった。
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